SCEAN16


池袋のラブホ街。
ベッドの縁に座り、裸のままタオルで濡れた髪の毛を梳かしているロビン。
その隣りでは、シーツを胸元まで掛けたまま雅が寝っころがり、朝からケータイのメールを打っている。
桃子からのメール。タイトルは「ももの朝食」と書かれていた。
メールの中身を開くと、真っ黒なホットケーキの画像。
そして、その下に一言、「うっかり焦がしちゃった、なんて事は、ほっとけーき(笑)」
そんな桃子からのバカなメールを見て、楽しそうにケラケラと笑っている雅。
するとロビンは気にくわなそうに、ベッドに寝っころがる雅の上に跨る。
雅は舌打ちをして、下からロビンをにらみつけた。
「んだよ、ロビン」
「なによー!!朝から楽しそうにメールばっかして!!」
「いいじゃん、別に。メールぐらい」
「なに?オンナ?」
「カンケーねーだろ。どけよ、ウゼーなぁ!!」
自分の体の上に跨るロビンを手でシッシッと追い払うが、全く動く様子のないロビン。
「ヤダ!絶対どかない!!」
そして仰向けに寝っころがっている雅の、鎖骨の辺りに唇を落とした。
歯を立てるように甘噛みをすると、「ツッ・・・」と小さく声を上げ、雅は僅かに眉根を寄せた。


「じゃぁね・・・もっかい抱いてくれたら、どいてあげる」
そんなロビンの言葉に、雅は思わず呆れ顔でため息。
朝っぱらからそんな気になどなるワケがない。
ましてや、桃子とメールをしている今となっては、正直、ロビンの事なんてどうでも良かった。
「ふざけんなよ・・・朝から疲れてんだよ。こっちは」
「ヤダー!!もうこっちはその気だもん!!抱いてーー!!」
「あのなぁ!!」
しつこいロビンに嫌気がさし、雅は上半身をベッドから勢いをつけて起こした。
体を起すと、2人の顔が5センチくらいの距離まで近づき、ロビンは嬉しそうにニヘラと微笑む。
そして雅の頬にそっと手を触れさせると、その頬に軽く唇を触れさせた。
「あはっ。怒ってる雅もカッコイイー!!!」
「お前なぁ・・・」
「ん?なーに?ダーリン」
ロビンはすっかり恋人気分でニコニコと雅を見ている。
雅はヤケクソな表情で前髪をクシャクシャッと掻き揚げると、ロビンを見て、ぶっきらぼうな口調でこう答えた。
「わーった!でもな、オレはこれでもホストだからな。好きでもない女を抱くのは労働なんだよ。だから、それに見合った賃金くれんなら、考えてもいいぜ!」
正直、こう言えば諦めるという算段があった。
好きでもない女と言われ、ましてや賃金の要求。そんなのフツーは了解するはずもない。
だが、それはロビンには通じない普通。
「いいよ。払ったげる」
「は?マジかよ・・・・」
「その代わり、賃金に見合った労働してくれないと、納得しないからね」
そう言ってロビンはニヤニヤと嫌な笑顔を零す。
金を払えと言われてまさか大人しく払うなんて思ってもいなかった。策士、策に溺れる。こうなってしまった以上は、ロビンの要求を受けるほかない。
雅は諦めてケータイをテーブルの上に置くと、ロビンの腕を掴み、ベッドの上へと押し倒した。
「しゃーねー。やりゃぁいいんだろ?やりゃぁ!!」
「ヤッターー!雅、大好き!!!」
満面の笑顔でロビンは雅の体に腕を巻きつける。
テーブルの上では、虚しく、ケータイのメール着信音だけが鳴り響いていた。





      ×         ×        ×




清水家の朝。
いつも以上に無機質な3人の朝食。会話のない空間。
ふと、清水が梨沙子の顔を見て、問いただす。
「梨沙子・・・。昨日も夜、家にいなかったそうだな?」
「・・・・・・・・・・・・」
「また、あいつらか!!!あんなチンピラと付き合ってるのか?!!」
テーブルを激しく叩きつける音。
梅さんがビックリした表情で、台所からその様子を覗き込んだ。
清水は剣幕な表情のまま、梨沙子を頭ごなしに怒鳴りつけていた。
「塾に行ってると思ってたら、あんなトコロで・・・」
「パパもこないだ、あんなトコロにいたじゃん」
「ワシは結婚式の二次会だ!!」
梨沙子の反抗的な口調に、ますます苛立ちを見せる清水。
2人の間では、茉麻がオロオロした様子で、躊躇いあぐねていた。


「勉強もしないであんなチンピラどもと・・・」
「成績は落ちてないし、問題ないじゃん」
「そう言う問題じゃない!!!!」
二度目のテーブルを叩く音。
テーブルの上でオレンジジュースの入ったコップが倒れ、梅さんが急いでテーブルの上を拭きに駆けつける。
オレンジジュースの雫がポタポタと床に落ち、梨沙子の足元を濡らした。
目を伏せたまま、梨沙子はその落ちてる雫をぼんやりと見つめていると、清水は「聞いているのか?!」と怒鳴りつけ、梨沙子の両肩を掴んだ。
「いいか梨沙子!あんなクズどもと一緒にいるな!!二度と許さん!ちゃんと塾へ行くんだ!!いいな!!」
梨沙子の両肩を掴み、揺さぶり続ける清水を見かねて、思わず茉麻も留めに入る。
「ちょっと・・・あなた!梨沙子も反省してるから、そんな怒鳴らなくても・・・」
「そんな甘い教育でどうする?母さん!!子供が付け上がるだけだろうが?!!」
「そ、そんな・・・」
すると、梨沙子はやってられないという表情で椅子から立ち上がると、ソファの上に置いてあったカバンを背負う。
そして梨沙子は2人の顔を交互に見つめた後、茉麻の顔を見て、ポツリと呟いたのだった。
「そうだね。ママは夜遊びであたしには強く言えないよね?」
「な・・・!!」
梨沙子の言葉に何も言えなくなり、黙りこくる茉麻。
清水は怪訝な顔で茉麻を見つめ「どう言うことだ?」と眉間に皺を寄せた。
「さ、さぁ・・・。近所の奥様と、よくお茶会とかしているからかしら・・・あたしも」
震える唇。
精一杯の嘘で誤魔化す茉麻を、汚いものでも見るかの様な冷めた目で梨沙子は見つめていた。
この家は狂ってる。何もかも・・・。
ウソばっかり。どこにも家族の愛情なんてないんだ。みんなウソで塗り固められた家族。
「行って来ます」
凍りつく茉麻を尻目に、梨沙子はカバンを肩がけしリビングを離れる。
零れたオレンジジュースを拭いていた梅さんが、「あ!お嬢様、お弁当!!今日は浅草のもんじゃころっけですよ!」と言って梨沙子の後を追った。
リビングに残されたのは茉麻と清水だけ。
愛情を失った夫婦の沈黙だけが、部屋を包み込んだ。





      ×         ×        ×




朝の清水商事。
桃子は更衣室で制服に着替えながら、ケータイ画面を見つめていた。
雅からの返信は、まだ来ていない。
「はぁ・・・やっぱ『ほっとけーき』は寒かったかなぁ?」
喜んで返信をくれると思っていただけに、ちょっとだけションボリしてしまう。
やはりダジャレが寒すぎたのだろうか・・・。
「あ!ホットケーキにバナナを添えて、『焦げちゃったなんて、そんなバナナ!』の方が良かったかな?」
根本的に寒いダジャレからは全く解放されていない桃子。
桃子は名残惜しそうにケータイをロッカーにしまうと、制服のリボンを結び、庶務課のオフィスへと向かった。
職場内では朝礼が始まる前の、どこかダラけた空気。
あっきゃんとはしもんが「マジぃ?なんとか君ゴシップされたのぉ?!チョーショック!!!」とか話している。中澤の姿は、まだ見えないようだった。
桃子は「おはよーございまーす」と言ってオフィスのドアを開けた。
だが、周りのOLは桃子をチラっとだけ見て、特に返事はしてくれない。でも、そんなのいつもの事。もう、慣れた。
桃子は自分の机に座ると、いつも通りハンコを出したり帳簿を出したりと、淡々と仕事の準備を始めた。
すると――。
俄かに庶務課の扉が開く。
そして、扉から現われたのは、庶務課の課長の中澤と、清水社長。そして秘書の能登であった。
「あ・・・しゃ、社長!!」
「やー!君達やってるかね?」
一斉にデスクから立ち上がり、清水に挨拶を始める社員達。
OLの1人が、「今、お茶をお持ちしますね?」と言って給湯室へ向かおうとするが、清水は笑いながら静止する。
「いや、ただの社内巡回だよ。すぐに他に向かう。気にしないで仕事を始めてくれ」


清水の言葉に従い、庶務課の社員達は仕事を開始する。
とは言え、やはり社長が見てるとなると落ち着かないもの。
なんとなく社長の目が気になってソワソワしてしまうあっきゃんとはしもんに、清水は楽しそうに2人の肩を叩き、問いかけた。
「君らもたまには、オシャベリばっかしてないで、本でも読んでくれたまえよ」
「え・・・・・」
「嗣永君を見習って」
その言葉に、思わず眉根を寄せてしまう2人。
清水が2人のデスクを離れ他のデスクに回ったのを見計らい、あっきゃんがこっそり「なんであの女を見習わなきゃいけないのよ」と耳打ちした。
桃子も(どう言うつもりなんだろう・・・)と、不安気な表情で、デスクを回る清水の小さな背中を見つめるしかなかった。

やがて、清水は庶務課のひと通りのデスクを回り終える。
そして最後に挨拶がてら、庶務課のメンバーにこう答えたのだった。
「ふむ。わが社では、社員の教養を養う為に、シーズン毎に課題図書を設けることにしたのだよ」
「え?課題図書ですか?」
「トルストイの『戦争と平和』。感想文も提出してもらう。長いが3ヶ月あれば読めなくもないだろ?頑張って読んでくれ」
課題図書。さらには『戦争と平和』のタイトルを聞き、オフィス内が一斉にざわつき始めた。
そんな長い小説を、ましてや感想文もつけてとなると、かなりの重労働は間違いない。あっきゃんもはしもんも『なんでよーー!!』と言った表情で、2人で顔を見合わせていた。
「ヒソヒソ・・・(なんでこの歳になって、読書感想文書くのよ、あっきゃん)」
「ヒソヒソ・・・(あれじゃん?前に、あの女が『本読んでて教養がある』とか言われてたじゃん!)」
「ヒソヒソ・・・(あー!!じゃ、アイツのせいってこと?)」
隣りでヒソヒソ声で話しているのが、桃子の耳に届き、ますます肩身の狭い桃子。
こうして、清水商事では新たに『課題図書』と言うシステムが設けられる事となり、清水にその制度を思いつかせた切っ掛けであろう桃子は、また庶務課の中で微妙すぎる立場になるのであった。








SCEAN17


「あーあ・・・課題図書かぁ〜」
小さくため息を吐きながら、ロシア文学の棚を探す桃子。
夕暮れの図書館。
会社で社長の気まぐれから始まった課題図書制度。
元々本が好きな桃子ではあるが、強制的に読ませられるとなると、何故か気が重い。
そんな微妙な気持ちを感じながらも、桃子はトルストイの『戦争と平和』を探していた。
すると、・・・♪♪♪・・・俄かに音を立てるケータイメール。

「あ、みーやんからだ!」

メールの表題には『返信遅くてゴメンね』と書かれていた。
桃子がメールの中身を開いてみると、ピースをしながらバナナを食べている雅の画像。
そして一言、『ホットケーキが焦げたなんて、そんなバナナ!!』と書かれている。
自分も雅と全く同じダジャレを考えたクセに、「もー。みーやん、バカなんだからぁ〜!」 思わずアハハと声に出して笑ってしまう桃子。
雅と、そんなくだらないメールのやりとりをする。
それだけで、昔の時間を取り戻せた様な気持ちになり、なんだか心が温かく感じた。


そして、雅からのメールを嬉しそうに見つめながらロシア文学の本棚を探していると、トルストイのコーナーはすぐに見つかった。
ドストエフスキーのコーナーのすぐ上。
「えっと。アンナ・カレーニナでしょ?・・・あ!あった。戦争と平和!」
そこには分厚いハードカバー本が全4巻。
見るからに読む気を無くすぐらいの、物凄い質量の作品がそこにあった。
しばし、本を見上げたまま凍りつく桃子。
「うわぁ〜。大変そーーー!!」
本好きの自分ですらこれだ。
他の人たちはホントにこれを読めるのか・・・他人事ながら心配になってしまう。
とはいえ、課題図書に出された以上は読まざるを得まい。
まずは第1巻から。
桃子は本棚の上の方にある戦争と平和・第1巻に手を伸ばそうとするが、思いの他、上の方に戻されていて中々手が届かない。
「あーん。もうちょっとなんだけどなー」
おとなしく脚立を使ってもいいのだが、なんだか頑張れば届きそうな微妙な距離感。
一生懸命背伸びをしてなんとか取ろうとする桃子。そして、ようやく指先が本に触れた瞬間、その本を後から別の人にヒョイと取り上げられたのだった。
「え・・・?!」
桃子がビックリして後を顧みると、
「はい。桃子ちゃん」と言って差し出される本。
そこには『戦争と平和・第1巻』を手にして、無邪気に笑う熊井が立っていた。

「あ!熊井さん!!」
桃子はペコッと頭を下げると、差し出された本を大切そうに抱きかかえる。
「ありがとうございます」
そしてクシャっとした笑顔で嬉しそうに微笑むと、熊井は「ううん、気にしないでよ」と言ってそっとかぶりを振った。
「ねぇ。それより、なんだか難しいの読むんだね?桃子ちゃん」
「あぁ・・・これですか?」
不思議そうに桃子の抱えている本を覗き込む熊井。
桃子は困ったように顔を顰めると、大げさにその肩をすくめた。
「なんか。会社で課題図書出されちゃって、みんなてんてこ舞いなんですよー」
「え?!会社で課題図書なんて出すの?ヒェ〜!!」
大げさなジェスチャーでビックリする熊井に「ほんと、困っちゃいますよぉ」と言って桃子はクスクス笑い。
しかも、社長にその課題図書を思い起こさせた切っ掛けがどうやら自分らしく、ますます微妙な気分であった。
そして2人で、桃子の会社での課題図書の話をしながらいつもの窓際の席へとつく。
向かい合わせにテーブルに着く2人。すると、桃子は熊井の脇に『サクラ色のキセツ』の本が抱えられている事に気づいた。
「あ、『サクラ色のキセツ』。読み終わったんですか?」
桃子からの問いに、熊井は無邪気な笑顔でなんだかちっちゃな子供の様に頷いた。
「うん!おもしろくってさぁ〜3回も読んじゃったよ!!」
「あはは。ホントですか?良かった〜。気に入って貰えて」

そして熊井は、学校であった楽しかった事を話す小学生の様に、嬉しそうに桃子に『サクラ色のキセツ』の感想を話し出す。
熊井はいつも、桃子が紹介してあげた本の感想をとても楽しそうに語ってくれるので、桃子自身、熊井に本をオススメしてあげるのが凄く楽しかったし、
その中でも、この小説は桃子の3本指に入るお気に入りの小説なだけに、これだけ気に入って貰えた事が、なんだか凄く嬉しく思えた。
「最後はやっぱり、幼馴染に会えるんだね〜」
「そうなんです。ハッピーエンドなんです」
「途中、どうなるんだろうって凄くドキドキしたからさ。エンディングは3回も読んでるのに、毎回泣いてたよ、オレ」
「アハハ。結構感動屋さんなんですねー熊井さん」
「幼馴染が巡り会えて、ホント良かったよ〜!!」
そう言って満足そうな笑顔を零している熊井。そんな熊井を見つめながら、桃子は楽しそうにうんうんと頷く。
その無邪気な笑顔も、優しい瞳も、時々見せる子供の様な言動も・・・。
熊井を見ていると、不思議なぐらい桃子の目には雅が被る。見た目や性格は全然違うのに、一緒に話していると雅と話しているような温かい気持ちになる。

桃子は目を細めニコニコと微笑みながら、小説の感想を語る熊井を見つめていた。
すると、その眼差しに気づいたのか、熊井が照れ笑いをしながら「あ、ごめん。オレ1人で喋りすぎかな?」と答えた。
桃子は「そんな事ないですよ〜。もっと熊井さんのお話聞きたい」と言って、柔らかな笑顔を零した。
その柔らかな笑顔にキュンと胸が締め付けられる熊井。
柔らかで・・・どこか大人っぽい笑顔。
そう。普段は童顔で子供っぽい桃子だけど、桃子は時々、こう言う大人びた表情を見せる。
その一瞬の表情に、いつも熊井は胸が締め付けられた。
そして、桃子がこう言う表情を見せるときは決まって――。

「最近ね・・・」
「えっ!?」

じっと桃子を見つめていた熊井。不意に桃子が口を開き、思わずビクッと肩を揺らした。
だが、桃子は特に熊井の動揺には気づく事無く、その言葉を続けた・・・。

「最近、この小説に似たような出来事に会ったんです」
「え・・・・」
「幼馴染の男の子に偶然会ったんです」
「・・・・・・・・・・・」

熊井は無意識のうちに、その唇を噛んだ。
なんだか胸が締め付けられる。キリキリと痛む。
桃子がこう言う表情を見せるときは決まって――『サクラ色のキセツ』の話をする時。
きっと・・・幼馴染の事を・・・思うとき。

「幼馴染・・・?」
熊井が震える声で繰り返すと、桃子は大人びた表情で、うんと頷いた。
そう。この表情だ。熊井が大好きな、桃子のこの表情。この表情はきっと・・・幼馴染に向けられたモノ。
「みーやん・・・。あ!幼馴染、みーやんってあだ名なんですけど。近所に住んでた子で」
「・・・・・・・・」
「すっごい優しくてカッコよくて明るくて無邪気な子」
「・・・・・・・・」
「ももの初恋の人」

熊井はテーブルの下で、ギュッとコブシを握りしめる。
胸が痛い。どうしようもないぐらい、心が痛い。

お願いだから、オレの前で幼馴染の話なんてしないでくれ・・・。
オレの前で、そんな嬉しそうな顔をしないでくれ・・・。

熊井は凍りついた表情を溶かし、無理やり笑顔を取り繕う。
そして恐る恐る。一番聞きたい。でも、一番聞きたくない質問を、桃子に投げかけた。
「その。幼馴染とは・・・付き合ってるの?」
「え?!」
予想外な質問に、桃子は俄かに顔が真っ赤になる。「やだぁそんなワケないですよぉ〜」と顔を真っ赤にしたまま答え、そして、サミシそうに呟いた。
「付き合うなんてとても・・・。メールのやり取りぐらいですよ」
「じゃぁ。彼氏いないの?桃子ちゃん・・・?」
「いませんよー。いたら毎日、寂しい図書館通いなんてしませんよ」
そう言ってクスクスと桃子は笑う。
ホンの少し。ホンの少しだけ熊井は気持ちが楽になり、ホッと息を吐いた。
彼氏がいない。まだ、その幼馴染とは付き合ってない。それだけで、心の中が随分と軽くなった。
「じゃぁ・・・桃子ちゃん。オレと・・・」
「え?なんですか??」
他の事を考えていたのか、熊井の言葉が良く聞こえてなかったらしく、桃子は顔を上げると不思議そうに問い返した。
キョトンとした目。
きっと、また幼馴染の事を考えていたのだろう・・・。
なんだか自分が居た堪れなくなり、熊井はゆっくりと椅子から立ち上がり呟いた。
「そろそろ・・・帰ろっか?」




    ×        ×        ×




図書館から、2人がサヨナラする公園までの道のり。
2人は肩を並べて歩いた。
熊井にとっていつもだったら楽しくて仕方ないこの時間も、今日は惨めなだけの時間。
すっかりテンションが下がり口を開かなくなった熊井を、その理由が解らない桃子は心配そうにチラチラと垣間見るだけだった。
そして、やがて2人は公園の側まで辿り着く。
あと少しで桃子とお別れ。
そう思うと、この惨めなだけの時間がなんだか急に惜しいモノに感じられ、そんな自分をますます惨めに思う。
知ってはいたけど、今更ながら身をもって知る。
自分は本当に、この子の事をどうしようもなく、好きになってるんだと・・・。
「ねぇ、桃子ちゃん・・・」
「え、あ!はい?!」
俯いたまま、ポツリと桃子の名前を呼ぶ熊井。
ようやく喋ってくれた熊井に、桃子はハッとした表情を見せ、嬉しそうに笑顔を零す。
その桃子の笑顔の1つ1つに、なんだか胸が張り裂けそうになる。
「あのさ・・・」
「はい?」
「今でも好きなの??」
「え??」
「幼馴染・・・」
震える声。
なんでこんなに声が震えているのか、自分でも解らない。
きっと、表情も頼りない表情をしているのだろうな・・・。
女の子に恋をさせる事を生業にしている自分が、どうしてこんなに惨めな姿になってるのか、自分でも良く解らなかった。


「今でも・・・」
桃子は熊井の問いを聞き、独り言の様に呟いた。
じっと考える桃子。じっとその横顔を見つめる熊井。
桃子は10秒ほど考え込むと、キュッと口を結び、大人びた笑顔でこう答えた。
「わかんないです。、勿論嫌いなワケないけど、今でも好きかはよく・・・」
「・・・・・・・・・」
「それに。みーやん、カッコイイしモテるから。あたしにはムリですよ・・・」
「・・・・・・・・・」
「彼、ずっと連絡だってくれなかったし。彼はあたしなんかきっと――」

悲しい横顔。大人びた表情。
話してくれなくても解る。きっと今でも好きなんだ・・・幼馴染の事を。

「ちょっとだけ彼、熊井さんに似てるかも。優しくてカッコ良くって・・・」
「・・・・・・・・・」
「あたしなんて、みーやんにはつりあわないから・・・」

やがて、公園に辿り着く。
ここでお別れ。別れたくない。もっと一緒に居たい。
そんな熊井の思いを断ち切るかの様に、桃子はくしゃっとした笑顔で微笑むとそっと右手をかざした。
「それじゃぁ、熊井さん。また来週。図書館で・・・」
「うん・・・」
笑顔で手を振り、桃子は熊井に背中を向け去ってゆく。
抱きしめたくなるほどのその小さな背中に、熊井は胸の高鳴りが止まらなかった。
去っていく彼女。でも、このまま別れるのは嫌だ――。
「桃子ちゃん!!」
「え?」
思わず振り返る桃子。
その瞬間、熊井の大きな手が桃子の柔らかな頬に触れ、そして・・・唇が重なる。
「!??」
見開かれる桃子の目。睫毛が触れるほどの距離に、目を閉じた熊井の顔があった。
そして、自分の唇を塞ぐその柔らかな感触。
「ん・・・」息が出来ず、桃子がどうしていいか解らないままに声を漏らすと、熊井はゆっくりと唇を離した。
それはホンの2、3秒の出来事。だけど・・・。

「く、熊井さん・・・?」

桃子は震える手で自分の唇に触れた。
今も唇に鮮明に残る、温かくて柔らかな感触。それは、指で触れても決して消える事はない。
「ど、どうして・・・?」
俄かに桃子の目に涙が浮かぶ。
次第に高まって行く心臓。桃子はただ、呆然とした表情で熊井を見つめるよりなかった。
「な、なんで・・・熊井さ・・ん」
「桃子ちゃん。オ、オレ・・・」
まるで何かを求めるかのように、熊井は右手を伸ばす。
桃子は何がなんだか解らず、ジリジリと後ずるしかなかった。そして、
「あ、あの・・・ご・・・ごめんなさい!!!」
「桃子ちゃん!!」
どうしていいのか解らず、桃子はまるで逃げ出すようにその場を飛び出し、住宅街の方へと駆け出して行った。
去っていく桃子を追うことも出来ず、呆然と立ち尽くすだけの熊井。
「桃子ちゃん・・・」
熊井はそっと自分の唇に手を触れる。触れた部分が焼けるぐらいに熱く感じた。
それはホンの2、3秒だけど、忘れる事が出来ない程、柔らかなキス。
熊井は顔をあげる。遠くには夕陽が沈んでいく幻想的な光景。
だが、その景色の中から、すでに桃子の姿はいなくなっていた・・・。


(つづけ!!)