SCEAN14


その日の庶務課の朝礼は、いつもと違う空気から始まった。
桃子が更衣室で制服に着替え庶務課に向かうと、中澤はとってもニコニコとした笑顔で「おはよう、嗣永くん!!」と言ってくれた。
清水社長にお茶を零しての一件以来、中澤から冷たい態度しか取ってもらえなくなってた桃子は、その中澤のご機嫌な態度に戸惑いを覚える。
(どうしたんだろ?中澤さん。競馬でも当たったのかな?)
あっきゃんやはしもんも同じ事を思ったのだろう「そう言えば、日曜のメインレースで万馬券出てたから、当てたんじゃん?」なんて会話が聞こえてくる。
しかし、中澤のご機嫌の理由は、競馬でもなんでもなかった。その理由は朝礼ですぐに明らかにされたのだった。
「いやぁ、週末の飯田君の結婚式は良かったな〜」
朝礼はそんな雑談から始まり、庶務課のOLたちも各々に「飯田さん綺麗でしたよね〜」と会話をする。
桃子も圭織のウエディングドレス姿を思い出しながらしきりに中澤の言葉に同調していると、中澤が不意に「嗣永君」と桃子に声をかけてきた。

「は、はい!!」
突然の名指しに動揺を見せる桃子。
朝礼で突然名指しをされるときは大抵仕事の事で叱られる時だ。
何を今日は怒られるんだろう・・・と、桃子が身構えていると、中澤が圭織の結婚式の話をしてる時以上の笑顔でこう言った。
「いやぁ〜嗣永君、キミ、よくやってくれた!!」
「・・・・・ふぇ?」
「清水社長がキミの事を、ものすごーく誉めてらっしゃったよ!!」
「え?」
予想だにしなかったお褒めの言葉に疑問符の飛び交う桃子。
回りのOLたちも「え?なに?なんでコイツが誉められてるの?」と言った表情で顔を見合わせている。
実際、桃子自身も思い当たる理由がない。清水社長が何故、自分を誉めてくれるのか・・・。
理由が解からないまま硬直している桃子に、中澤はご満悦な表情で言葉を続けた。
「飯田君の二次会で、清水社長と文学論したんだってな!!嗣永君!!」
「・・・・・あ!」
「あれだけ教養のあるOLは珍しい。庶務課は人材教育が行き届いてるねとお褒めの言葉を戴いたのだよ!!」
「ほ、ほんとですか?」
「あぁ!!キミの様な知的な部下が居て、非常に鼻が高いよ!!」
「あ、ありがとうございます!!」
予想もしなかった中澤からの、そして清水社長からの誉め言葉。
桃子は嬉しくって深々と頭を下げてお礼をする。
この清水商事に入ってから、上司に誉められる事なんて殆どなかった。それが、こんな朝礼の場で上司から堂々と誉めてもらえるなんて・・・。
ましてや、清水社長からの賛辞。本当に嬉しくって仕方がなかった。

その後・・・。
相変わらずあっきゃんやはしもんからは「社長に取り入るなんてサイアク」なんて陰口を叩かれたが、気にはならなかった。
陰口はもう慣れっこだったし、それ以上に嬉しさが気持ちを上回っていた。
退屈なOL生活。肩身の狭い日々。
ロクな毎日じゃないけれど、初めて人から認められて、本当に嬉しかった・・・。




1日の仕事が機嫌よく終わり、桃子はいつもどおり図書館へと向かった。
月曜日は待ち合わせの約束はしてないけど、こう言う嬉しい日は、きっといい事が続くような気がした。
そんな桃子の予想通り、約束はしてなかったけど、熊井が図書館に顔を出してくれた。
「あ、よかったぁ。桃子ちゃん、やっぱいたんだ」
「こんにちわ、熊井さん」
ニコニコ笑顔で挨拶をする桃子。
そんなご機嫌な様子の桃子に熊井もすぐに気づいたらしい。「あれ?なんか嬉しそうだね?」と問いかける。
桃子は「そうなんですよぉ!」と答え、今日会社であった出来事を嬉々として熊井に語ったのであった。
清水に誉められたこと。初めて会社で認めてもらえたこと。本を読んでたことが無駄じゃなかったこと・・・。
いつもは会社の愚痴ばっかりで、桃子の口から出る言葉はつらい気持ちや悲しい表情ばかりであった。だから、こんなに嬉しそうな桃子の笑顔を見ることが出来て、熊井もなんとなく嬉しい気持ちになる。
「良かったね、桃子ちゃん。おめでとう!!」
そう言って桃子の手をギュッと握ると、小さな桃子の手が熊井の手をキュッと握り返した。
「ありがとう、熊井さん」
小さくて柔らかくて温かい手・・・。
まるで桃子の人間そのものを表しているようなその手に、なんとなく照れくさくなる熊井。
熊井は照れ笑いを浮かべながらその手を離すと「あ、あれだよね。確かに本読んでると、話題とか豊富になるよね」と答える。
「本読むようになってから、お客さんから『会話の幅が広くなった』って言われるもん、オレ」
すると、桃子も熊井の言葉に納得の様子で頷いた。
「そうですよね。バーテンさんも、お客さんとの会話が大切ですもんね」
「え?あ、あぁ。そうね。バーテンも会話が大切だからね」思わず誤魔化し笑いの熊井。
自分の職業がバーテンって言う事になってたのをすっかり忘れていて、心臓が止まりそうになる。
そんな熊井のキョドってる様子にも気づかず、桃子はまっすぐな目で熊井の顔を見つめると、クシャッとした笑顔を浮かべ答えた。
「あたしね。会社を辞めたいって思ったこともあったけど、認めてくれる人が会社の中にいたって事が凄く嬉しかった」
「うん・・・そうだね」
「だからね、認めてくれる人がいる限り・・・これからも頑張ろうって思いました!!」
爽やかな笑顔。優しい眼差し。
桃子を見ていると、心臓の音が不思議なぐらい昂ぶって来る。
「うん。桃子ちゃん、がんばれ!!応援してるよ!!!」
そう言ってガッツポーズをする熊井に、桃子は凄く嬉しそうに満面の笑顔で頷き返したのだった。

しばしの間、2人でそんな感じで会社の話をしていると、熊井のケータイがRRRと音を立てた。
アラームの音。もう、仕事場に向かわないといけない時間。
「あ、そろそろ行かなきゃ」
熊井が呟くと、桃子も椅子から立ち上がり答えた。「あ、じゃぁ、あたしも帰ります」
そう言って熊井と一緒に図書館を後にする桃子。
大抵桃子は、図書館に来たら1冊は本を借りていくのに今日は何も借りないのだろうか・・・。
一緒に歩きながら、熊井は不思議そうに首をかしげ桃子を見つめる。
「あれ?本借りなくていいの?桃子ちゃん」
「うん。今日は本を返しに来ただけなの。帰りに浅見光彦の新刊買ったんで、家で読みます」
そう言って嬉しそうにカバンから、カバーのかかった本を取り出す桃子。
「内田康夫はファンなんで、図書館で借りないで自分で買うんですよ〜」
そんな桃子を見て、熊井は思わず「アハハ」と声を出して笑ってしまう。
「???」不思議そうに熊井を見ている桃子に、「ゴメンゴメン」と呟きながら苦笑いで答えた。
「いや。桃子ちゃんぐらいの年の子って、もっとタッキーとかナガセとかのファンっていいそうなのに。内田康夫のファンってのがオモシロくって」
「え〜。そうですか?浅見光彦って人気あるんですよ?ファンクラブとかありますから」
「え?!マジで?!凄すぎ!!」
「あたしは入ってないけど、なんかロケ地めぐりとか色々やるみたいです」
「そうなんだ・・・。やっぱ桃子ちゃんって話題豊富だよな〜」
「こんなネタで話題豊富でも、仕方ないですけどね」クスクスと笑う桃子。

そんな、なんて事ない雑談を交わしながら2人は図書館近くの公園にまで差し掛かる。
「あ。あたし方向あっちなんで・・・」
そう言って住宅街の方を指差す桃子。熊井はコクリと頷く。「じゃぁ、ここでお別れだね・・・」
店は赤羽の駅の方にある。桃子とは、ここでお別れだ。
だが、なんとなく名残惜しくて、さよならを口に出せない熊井。しばし2人で見つめあう。
街灯が2人の姿を照らす。
じっと桃子をみつめる熊井の眼差しに、桃子は恥ずかしそうに顔を俯かせた後、意を決するように顔をあげ熊井を見つめた。
「あの、熊井さん。また明日・・・!!」
明日は火曜日。いつもの約束の日。
そう、今日別れてもまた明日会えるんだ。24時間経てば、また一緒に会える・・・。
ようやくお別れする気になれた熊井。ゆっくりと手を上げて「また明日ね」と呟く。
「うん、また明日!!!」そう言って手を上げて、柔らかな笑顔を零す桃子。
その笑顔を見ているだけで、心が締め付けられるように痛い。
会うたび桃子を好きになって行く、自分を感じる。
去っていく桃子。名残惜しさが再び心の中を満たす。気がつくと、熊井は大きな声で叫んでいた。
「あ、あのさ、桃子ちゃん!!!」「え?」「仕事、辛い事も沢山あると思うけど、こーやっていい事もあるし、がんばろーぜ!!!!」
力強くガッツポーズをする熊井。
桃子は嬉しそうに笑い大きく相槌を打つと、「ありがとーございます!!」と大声で答えた。
そんな桃子の笑顔に、また心がギュッと締め付けられた・・・。





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月曜日。
週明け直後。ましてや給料日前は、あまり客足が良くない。
ホストクラブ『Berryz』。
時刻は7時を回っていたが客が来る気配がない。まだ来るには中途半端な時間なのかもしれない。もう少ししたら来るだろう・・・。
カウンターでグラスを拭いている吉澤と、ボーっとソファに座っている熊井。そして、しきりに携帯をいじっている舞美。
退屈そうな空間。
やがて、ケータイをいじっていた舞美が、ポツリと呟くように問いかけた。
「なぁ、熊井・・・」「あん?」「お前、好きな色って何?」「はぁ??!」
突然の意味不明すぎる質問に、思わず眉を顰める熊井。
「な、なんでそんなん聞くんだよ」
「いや、なんとなく・・・」
「男が男に好きな色聞くか?キモイなぁ〜」
少し身じろぎをし、遠巻きにした目で熊井は舞美を見つめる。
そんな熊井の態度に、舞美は「ちょ!ちげーよ!!」と、焦った様子でしきりにかぶりをふった。
「あの・・・なんだ?あれだ!占いだよ!!」
「占い?」
「今、ケータイサイトで流行ってんだよ。色占い」
「はぁ?色占いが今更流行るのか?」
「そう、あれだ。ゲンセン懐古!!」
舞美の言葉を聞き「原点懐古だろーが、頭悪いなぁ」と呆れた様子で笑い声をあげる熊井。
だが、どうにか誤魔化しは出来たらしい。熊井はうーんと腕を組むと、好きな色をあれこれ頭の中に浮かべた。
青・赤・緑・・・。
一瞬、桃色とか思ってしまった自分がバカみたいで、思わず苦笑う。
熊井は30秒ほど考え込んだ後、「緑かな・・・」と答えた。
「へー緑なんだ?」
そう言って頷きながらケータイをポチポチと打っている舞美。
当然、ケータイ占いの答えを入力しているものと思い、熊井はソファからボーっと舞美をみていたが、舞美はひと通りケータイを打つと、何事もなかったかの様にケータイを閉じてしまう。
おもわず熊井はソファの上からズッコケる。
「ちょ!!占いの結果はどーなってんだよ!!」
「へ?・・・あ、あぁ!!占いか!!あ、そっか、占いなんだっけ、オレ」
「お前が占いって言ってたんだろ。イミワカンネーー!!」
「そっか、そっか。えーっと、ちょっと待ってろよ。緑が好きな人は・・・『セカンドチャンス到来!!カタログギフトは第2希望が届きやすくなる』そうだ!よかったな!!」
「カタログギフトって・・・ホントにそれ、占いの答えなのか?」
いつもながらの舞美のボケっぷりに、ソファの上でグダーっと崩れ落ちる熊井。
そんな2人のやりとりをカウンターから見ながら、吉澤は「相変わらず舞美はスゲーなぁ!!」と、大ウケしまくっている。
なんかもう、とりあえずごまかし笑いをするしかない舞美。
すると、そんな店内の喧騒に混じるように、舞美のケータイがブルッと音を立て、舞美はそれをこっそりと開いた。
開いたメールには『熊井さんに聞いてくれて、サンキューまいみ♪ BYちなみ』と、ノー天気な文章が書かれていた。
(ったく。こっちの苦労もしらないでよぉ〜)
千奈美の文章を見て、思わず膨れっ面をする舞美。
そう、開店前に千奈美とメールをしていた折、千奈美が『熊井にマフラーを編みたい』と言ってきた。
そしてそれとなく、熊井に好きな色を聞いてくれと頼まれたのだった。
それとなくどころか、思いっきり怪しい感じにはなってしまったが、どうやら普段からのボケっぷりが功を奏したらしい。
熊井も吉澤も特に疑う事無く「ほんと、舞美はヘンだよなぁ〜」と、こちらの様子に気づく事無く舞美の話に花を咲かせていた。
「舞美は熊井ほどじゃねーが、年上のお姉さまに人気あるよな」と吉澤。その言葉を聴き、熊井も大きく頷いている。
「そーですね。常連の矢口さんも、舞美のドジっぷりがカワイイって言ってますよね」
「バカでお人よしな性格が、ホストっぽくなくてイイんだろーな」
そんな吉澤の何気ない言葉に、チクリと胸が痛くなる舞美。
(バカでお人よし・・・か)
心の中で呟く。確かにバカでお人よしなのかもしれないよな、オレ・・・。
再び来たメールには『熊井さん、マフラーなんて喜んでくれるかな?』と、不安げな千奈美の言葉。
舞美は励ますように『大丈夫だよ。嬉しいに決まってるよ』と返事を返した。
そして、そんな自分に、心の底から思う。
ホント・・・バカでお人よしだな。オレ――。






SCEAN15

池袋のアーケード下。
いつもは雅たちが遊んだり踊ったりしている自由な空間だが、今日は違う。
何処となく緊張した面持ちの少年少女。
その中心には、みるからに堅気の商売には見えぬ、季節はずれのアロハシャツを着たガラの悪い男が立っていて、千聖から金を受け取っていた。
「へへ。藤本のアニキ。こいつが今月の稼ぎです」
「おう、ご苦労だったな、千聖」
舌でペロッと指先を舐め、万券の数を数えている藤本。ひぃふぃみぃと数えながら、チラッと雅の方を振り向く。
「おう、雅もご苦労さん」
「いえ・・・オレたちがブクロで自由なのは藤本さんのお陰ですから」
そんな雅の後から「おかげですからぁ〜!」と言って、ヒョコッと顔を覗かせるロビン。
藤本が嬉しそうにヤニ下がった表情を浮かべる。
「おっ、ロビンちゃんじゃねーか。相変わらずカワイイなぁ。今度またヤらせてくれよ!!」
「いいですよぉ。藤本さんなら、カッコイイからぁ」そう言って投げキスをするロビン。
藤本は嬉しそうにロビンの体を触ったりセクハラし放題。

そんな一同のやり取りを、雅たちの遥か後方から怯えたように見つめているのは梨沙子。
わずかに後に下がりながら少しずつ距離を置こうとするが、そんな梨沙子を「お!なんかめちゃくちゃカワイイコが入ったじゃねーか!」と言って目ざとく見つけてしまう藤本。
思わず梨沙子はビクッと凍りつく。
「へへへ、やっぱ雅はモテるよなぁ。カワイイ子ばっかじゃん」」
そんな事を言いながら藤本が梨沙子へとにじり寄ると、梨沙子は縋るように目線を雅へと向けるが、雅は困ったように目線を伏せるだけ。
本職である藤本には何も言うことは出来ない。
「なぁ、今夜オレの相手してくれよ、お嬢さん」「い、いや・・・」「怖がるなよ、オレはベッドの上じゃ優しいぜー」
涙目で怯える梨沙子はおかまいなし。藤本は梨沙子の右腕を掴むと、左手でその腕をそっと触れる。
そして恐怖で震える体に、尚も藤本が首筋をいやらしい手つきで撫でた瞬間だった・・・。
「あの、藤本さん」「あん?!」
眉を顰めて振り返る藤本。
すると、雅が顔を俯かせたまま「すみません。そいつは今日は、勘弁してやってくれませんか・・・」と恐る恐るに呟く声が聞こえた。
藤本はその言葉を聞き、剣幕な様子でまくし立てる。
「んだと!なんでだよ!雅!!」
「こいつ、今日は体調悪いみたいなんです」
「体調が悪いだぁ?」
「えぇ、今週はちょっと・・・」
その言葉を聞きハッとした表情を浮かべる藤本。「あ、そーゆーことか・・・。」
そして藤本は値踏みをするようにジロジロと梨沙子の全身を拝んだあと、
「それじゃぁ仕方ねぇよな・・・残念だけどよ」と苦笑った。
何がなんだかわからない様子で、ただただ震えている梨沙子。
藤本は怯えた様子の梨沙子の肩をポンっと触れると「じゃぁ今度、終わった時にでもヤラせてくれよな」と言って厭らしい笑いを浮かべる。
そして、そのまま札束を手にアーケード下を離れてゆく藤本。
藤本の姿が見えなくなった辺りで、千聖が「はぁ〜。疲れた〜」と言って、その場にしゃがみ込んだ。
「ったく。藤本さんの相手が一番疲れるよな〜」

アーケードの近くを山手線が、ガタゴトと通り抜けてゆく騒音が聞こえる。
ぐったりしている千聖たちとは裏腹に、未だ体を震わせたままに立ち尽くしている梨沙子。
そのウルんだ目が雅を縋るように見つめるが、雅は目線を合わせる事無く、アーケードに寄っかかりながらタバコを燻らせているだけ。
電車が通り抜けたあとの静寂。暫しの沈黙。
すると、そんな雅の肩へと、ロビンが不機嫌そうな顔をしながら凭れかかってきた。
「ちょっとぉ〜。あたしは助けないで、なんで梨沙子だけ助けるのよぉ!!!」
そう言って雅の腕を絡めとるロビン。雅はフンッと鼻で笑い、ロビンの腕を邪魔臭そうに解く。
「テメーは自分から、藤本さんの元へ擦り寄ったんじゃねーか、ボケ!」
「なによぉ〜」
「それに・・・・・」
そう呟くと、雅は梨沙子に冷めた眼差しを向け、嘲るように笑った。
「お嬢がいきなり藤本さん相手じゃ、刺激強すぎだろ?」
「アハハ!確かに!!あの人激しいもんねぇ〜〜!!!」
下卑た笑いで大ウケしているロビンと周りの仲間達。
居心地悪そうに梨沙子がその場で俯いていると、不意に自分の肩に触れる腕の感触を感じて、梨沙子はハッとして顔をあげた。
雅がいつの間にか、自分の肩を抱いてじっと梨沙子の事を見つめていたのだった。
何も動く事が出来ずに、梨沙子は硬直する。
雅の澄んだ眼差しに、心ごと吸い込まれそうになる。
「いきなり藤本さんより、まずはオレで慣れさせた方がいいだろ?梨沙子・・・」
「・・・・・・・・・・」
「何か言えよ、梨沙子・・・」
アゴに触れる雅の手。
僅かに顔を上げさせられると、自然と両の目が閉じる。
暗闇の中、柔らかな唇の感触だけが伝わり、梨沙子はギュッと両の目を瞑った。

いつも泣かされてばかり。優しくなんてない恋人。
だけど、キスだけはいつも、とろける位に優しい・・・。

やがて、ゆっくりと唇が離される。
梨沙子は真っ赤に染まった頬で雅の顔を見つめるが、雅は何事もなかったかの様に目線を逸らす。
そして、素っ気無い口調で、こう答えた。
「次は藤本さんから助けてやんねーぞ、梨沙子」「・・・・・・・・」「これがオレたちの世界だ。お前について来れんのか?」
何も言えず俯く梨沙子。
すると、素っ気無い口調から一転。雅は剣幕な声でまくし立てるように怒鳴りつけた。

「帰れ、梨沙子!!!そして二度と、オレたちの所に来るな!!!」

それは今までに聞いた事もないような雅の怒声。
思わずビクッと肩を震わせる梨沙子。ロビンや千聖たちも、雅が感情むき出しで怒鳴りつけるのが珍しかったのか、目を丸くしてその様子を見ていた。
驚きで何も言えず、梨沙子はその場に立ち尽くした。迷子の子犬の様な目が、縋るように雅を見つめる。
すると、雅は梨沙子の頬を両手で包み込むと、再び唇を重ねた。
それは先ほどの柔らかいキスとは比べ物にならないぐらい、深いキス。初めての感触。絡めとられる舌に頭の中がクラクラとする。眩暈がおきる。
10秒ほどの長いキスが終わり、2人の唇が離れた。梨沙子の目からは、ボロボロと涙が零れ落ちる。
雅は右手でそっと梨沙子の涙を拭うと、今一度告げた。「もう、二度と来るな・・・梨沙子」
梨沙子はその場に俯き、ギュッと瞳を閉じる。涙がポタポタとアスファルトに染みてゆく。
ズルイ。みやはズルイ。
来るなと言ってこんなキスをされたら、また会いたくなる・・・。

鞄を肩にかける。
何も言わず、その場を離れようとする梨沙子。
ただじっと、その背中を見つめている雅。
梨沙子は不意に立ち止まると、振り返る事無く、弱々しい声で呟いた。

「また・・・来るから・・・」

夜の池袋の雑踏を歩く。
夜風が吹きぬけ、梨沙子の唇を優しくなでる。
だが、唇は今だに熱を持ったように熱く、心の中はまるで焼き付けるような痛みが体を支配していた・・・。





      ×          ×         ×




夜の冷気が身に染みる。
アーケード下ではいつもどおり音楽が流れ、若者達が踊っていた。
そんな中、アーケードに凭れて座り込み、ボンヤリと夜空を見上げている雅。
タバコの煙が闇夜へ昇り、消える。

先ほどの一件があり、梨沙子は自宅へと泣きながら帰って行った。
ここんとこ、梨沙子を泣かせてばかりな気がする。
雅がこうやって座っていると、梨沙子はいつも隣りに腰かけ、雅の右肩に凭れていた。でも、今は肩にかかる重さがなくてなんだかヘンな感じだ・・・。
ぼんやりと考えながら雅が夜空を見上げていると、不意に右肩に重みがかかった。
ハッとして雅が振り向くと、そこには雅の肩に凭れるロビンの姿があった。
「フフ、梨沙子かと思った?」
「ちげーよ」
不機嫌そうに答える雅を見て、ロビンはクスクスと笑う。
雅が癇に障った様子でロビンの頭を肩から振り落とそうとすると、ロビンはパッと肩から頭をどかし、今度は雅の右腕に左腕を絡め凭れた。
そんなロビンを見てどこか観念した様子の雅。振りほどくのを諦め、大人しくロビンの腕を絡めたままに、再び空を見上げる。
しばらくの沈黙。
やがて、ロビンが雅の体に凭れたまま、ポツリと呟いた。
「ねぇ、また来るのかねーアイツ。おじょーのクセにムリしちゃってさ」
「・・・・・・・・・」
雅は何も答えない。
するとそんな2人の元へ、ダンスを踊っていた千聖が、タオルで汗を拭きながら近寄ってきた。
「そーいえばさ。こないだ、梨沙子の父親に怒られたよな〜オレら!!」
「アハハ、そーそー!!『こんなチンピラどもと何してんだ?!』でしょ?あのタコオヤジ!!」
大ウケしているロビンに、千聖もゲラゲラと笑いながら同調する。
「アハハハ!!あのチビオヤジ、シメてやりゃ良かったよなぁ!!!」
楽しそうに笑いあうロビンと千聖を、どこか冷めた表情で見つめる雅。
つまらない会話。
フゥと小さくため息を吐くと、雅は空を見上げたまま、キュッと目を細めた。


『お前はオレの誇りだ!!』


昔、雅はそんな事を言われた事がある。
あれは高校の頃。サッカー部で金沢の地区大会を制覇した時のことだ・・・。
決勝ゴールを雅が決めて、みんなでメダルを貰った。
そしてその日の夜、祝勝会場で里田監督が雅の両肩を掴んで、力強く言ってくれたんだ。お前はオレの誇りだ・・・と。
かつては誇りとまで言われた自分。だが今は、チンピラ共か・・・。笑ってしまう。

――みーやん、何も変わってない。良かったぁ。

すっかり変わってしまった自分を見られたくなくて、ずっと連絡が取れなかった、大好きな幼馴染。
でも彼女は再会したとき、「何も変わってない」と言ってくれた。
・・・・・・・・。
違うよ、もも。全然違う。うちはもう、あの頃の雅じゃない。
変わってないように見えるのは、ももが変わってないから・・・。
ももがあの頃のまま、優しいもものままだから、あの頃と同じ眼差しで、うちの事も変わってないように見えるだけ。
ホントは何もかも変わってしまった。うちはもう、ももの知ってる雅じゃないんだ。

風がアーケードを通り抜ける。
くだらない会話と、聞き飽きた洋楽が、雑音の塊となり耳に響く。
本当は違う。こんなんじゃない。自分が望んでいる世界は・・・ホントは、こんな世界じゃないんだ。


出来るなら、あの頃に戻りたい――。


1週間前。
ももと久々に会って一緒の時間を過ごした時、まるで止まっていた時間が動き出した様な感覚を覚えた。
一緒に過ごした、あの学生時代に戻ったような・・・。
ももといると素直になれる。ももといると優しくなれる。ももといると温かくなれる。

気づいたら・・・。
雅はポケットの中からしわくちゃになった、桃子の名刺を取り出していた。






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赤羽のワンルームマンション。
ベッドに寝っころがりながら、真剣な表情で浅見光彦を読んでいる桃子。
半分ぐらいまで読破し、いったん栞を挟んでハードカバーの表紙を閉じる。
「疲れた〜。はぁ、お茶でも飲もうかなぁ・・・」
冷蔵庫からパックのコーヒーを取り出し、グラスに注ぐ。琥珀色の飲み物がグラスの中で揺れる。
甘口のコーヒーを一口だけ口に含むと、桃子はフゥと大きくため息をついた。
そしてぼんやりと、夕方の事を思い出す・・・。


――仕事、辛い事も沢山あると思うけど、こーやっていい事もあるし、がんばろーぜ!!!!


別れ際、熊井が言ってくれた言葉。
その言葉を思い出すたび、なんだか嬉しくなる。
真っ暗でつまらない現実が嫌で空想の世界に逃げてばっかりだった自分だけど、熊井と出会ってからは少しづつ、現実がパステルカラーで彩られてきた。
熊井友理奈。まるで夢の世界から飛び出てきた主人公の様な、ステキな人。
もしかしたら彼は本当に夢の中の主人公で、自分を夢の世界のヒロインに導いてくれてるのかもしれない。
そーんなバカな事を考えてるウチに、なんだか恥ずかしくなり思わず桃子はクスっと笑ってしまう。
「なーに言ってんだろ、あたし・・・」
コーヒーカップを手にしたまま、床にひかれたラグの上に座り込む桃子。
コテンとベッドの縁に頭を寄りかけ、低い天井を見上げる。
「ウフフ。いまごろ熊井さん、お仕事がんばってるんだろうなぁ〜」
コーヒーを口に含み、クスッと笑顔を零す。
熊井の事を思うだけで、なんだか気持ちが明るくなっていくから不思議だ。
いつも図書館でしか会ったことのない彼だけど。いつか一緒にお食事ぐらいしたいな。
映画とか一緒に見たり、遊園地行ったり・・・。
「でも、熊井さんカッコいいから。きっと彼女とか・・・いるよね」
ふと、引き戻される現実。
あれだけステキな人に恋人がいないワケがない。何を浮かれてるんだろうか・・・。

なんとなくこれ以上考えるのが嫌になり、桃子は大きくため息をつくと、再びベッドの上に戻り小説の続きを手に取る。
やっぱり自分には小説がお似合いだ。悲しいけど、これが現実。
どこかやる瀬無い表情で、桃子が栞を挟んでいたページから続きを読もうとすると・・・♪♪♪♪・・・俄かに携帯の着メロが鳴り、桃子はケータイを手に取った。
ディスプレイには『メール1件』と表示されていた。

「あれ?誰からだろう??」

見覚えのないアドレス。
桃子が不思議そうに首を傾げながらメールを開くと、一番上に「雅より・・・」と文字が打ってあるのが見えた。
思わず桃子はベッドから飛び起き、悲鳴をあげる。

「み、みぃ〜やん?!!!」

あれは一週間前だっただろうか・・・。
池袋の街で偶然雅に会った。「連絡して、約束だよ!」と言って、桃子は雅に名刺を渡した。
だけど、雅からは結局、メールも電話も来なかった。
会った時も何処か気まずい顔ばっかりされて、余り嬉しそうではなかった。
だから、もしかしたら雅は、もう桃子には会いたくないのでないかと思っていたんだ。連絡なんてくれるつもりないんだと・・・。
それだけに、半ば諦めていただけに、雅からメールが届いて、桃子は笑顔が零れんばかりに嬉しかった。

タイトル『Dearみーやん』。
なんかもう嬉しくて嬉しくて、子供みたいに絵文字とかいっぱい使って返信を送る。
学生時代の事とか、テレビの事とか、くだらない会話をいっぱい文字に託してメールに打つ。
すると雅からは、こないだの素っ気無い態度がウソの様に、楽しそうなメールが沢山帰ってきた。
30分ほど続くメール。尽きない会話。それは動き出した、幼馴染との柔らかな時間・・・。


――つまらない毎日。退屈な日常。日の当たらない日々。


だけど、
そんな桃子の毎日が少しづつ、光を帯びて輝き始めていたのを感じた。



(つづけ!!!!!!)