第9章 舞い降りた天使





夏の暑い日ざしが、アスファルトを焼き付ける。
茉麻がいなくなり、あれから3週間が過ぎた。
交差点では焼ける様な日差しの中、フリージアが静かに揺れる。
枯れないフリージアは、今も枯れないまま・・・。

だけど――。

「ねぇ、あゆみーん!そろそろいこーよぉ!!ビアガーデン!!」
「あ・・・うん!今、行く」

友達だろうか?
女の人が柴田の数メートル向こうに3人ばかり連れ立っている。
今日は暑いから、真昼間からビアガーデンに行って飲み明かすのだろうか。3人はテンション良く話していた。
茶髪の派手な女性がゲラゲラと笑い声をあげている。賑やかな人たち。
柴田は目を閉じフリージアに数秒間黙祷したあと、何処か晴れやかな表情で3人の元へと駆け出した。

「ごめんね、遅くなって!行こっ!!」

同じ職場の同僚なのだろうか、柴田を含めて4人は楽しそうに笑いあいながら、桃子の前を通り抜けて行った。
桃子に気づく事ないままに・・・。


「・・・・・・・・・」
桃子は柴田の去ってゆく後ろ姿を見つめる。
それはどこか、軽い足取りに思えた。
柴田は先ほど交差点にフリージアを供え、黙祷をしながら茉麻に報告をしていた。
「新しい職場で仕事を始めた」と。「同僚もいい人ばかりで、気持ちが随分と軽くなった」と。
そして、「あなたの分まで、一生懸命生きます。」と・・・。

柴田の中で何かが吹っ切れていた気がした。
それは茉麻がいなくなった事が原因ってだけではないような気がする。
職場が変わって気持ちが新しくなった事も勿論だろうけど。きっと、この場所で全ての思いをブチまけた事が、気持ちが吹っ切れた一番の理由の様な気がした。
心の中に蓄積されていた苦しみも憎しみも悲しみも、そして罪悪感も。
あの日、この場所で全てをブチまける事で、心の中が軽くなったのかもしれない。


茉麻も今の柴田の姿を見て、きっと喜ぶだろう。
早く茉麻に会って、報告してあげたい。
いや、もしかしたらすでに、天国から柴田を見て安心しているかもしれない。そうだといい――。
桃子は交差点を離れる。赤いフリージアが遠のいてゆく。



きっともう、この交差点には来ないだろう・・・。



焼きつくような暑さ。ジジジジジと蝉の声が聞こえる。
季節は7月下旬。
世間はいつしか、夏休みになっていた。







桃子が交差点を離れ国道沿いを歩いていると、
川原へお散歩に向かうジョンとおじいさんにすれ違った。
高い場所で輝く太陽。いつものお散歩の時間。だが、桃子の足は川原には向かない。
ジョンはキョトンとした面持ちでこちらを振り返り、それを見た桃子は、思わずクスッと笑う。

「ごめんね、今日はあたし。川原に向かってるんじゃないんだ〜」

ヒラヒラとジョンへ手を振る桃子。その足は一路、学校へと向かう。
死んでから・・・一度も学校へは行かなかった。
クラスメイトを見るのが辛かったから。みんなから見えないのが辛かったから。雅に会うのが辛かったから。
だけど――。



昨日の夜を思い出す。
TV画面の中では、爽やかな夏の曲を歌うアイドルの女のコ。
部屋で歌番組を見ている桃子に、梨沙子が不意に笑いながら言った。

「ね。明日一緒に学校来てよ」
「え・・・?」
「だいじょうぶ。今は夏休みだから、部活やってる生徒ぐらいしかいないから大丈夫だよ」

梨沙子の話では、美術の授業で自由課題が出てるらしい。
折角だから、本格的な油絵を描きたい、と。
そして、風景画とか色々考えたけど、どうしても描きたい絵があると、梨沙子は言った。

「ねぇ、一緒に美術室に来てよ」
「え?」
「もも。絵のモデルになってよ」

思わず言葉を失う桃子。
梨沙子はもう、雅や千奈美や友理奈とは、殆ど会わなくなっていた。

「ももの絵、描きたい」
「でも・・・」
「ダメ?」

泣きそうな目で縋る。そんな目をされると断る事なんて出来ず「いいよ」と、微笑むしかなかった。
すると梨沙子は嬉しそうに、肩をすくめて笑った。

「ありがと、もも」

話は終わり、TVも見終わった後、梨沙子は「もう、寝るね?」と言った。
そして電気を消し、梨沙子がベッドに潜り寝ようとした瞬間、梨沙子が不意に胃の辺りを押え、蹲った。
流れ落ちる脂汗。
桃子はビックリして、梨沙子の側に駆け寄り、顔を覗きこんだ。

「り・・・梨沙子?!!」
「だいじょぶ・・・」

ココ数週間の間。梨沙子はあまり体調が良さそうではなかった。
だが、桃子にはどうする事も出来ない。
背中をさする事も、誰かを呼ぶことも出来ない。



(なんとなくだけど。まぁね・・・解った気がするんだ。ももは何者なのか・・・)



あの日の茉麻の言葉を思い出す。
茉麻はあの時、ハッキリと桃子に告げた。桃子は一体何者なのか・・・。

だが、あの言葉は本当に正しいのか解らない。

結局。今も自分は、梨沙子を周りの世界から引きずり落としているだけの様な気がした・・・。
自分は梨沙子に何もしてあげられてない――。






夏の太陽の下。
やがて、桃子は学校の校門へと辿り着いた。
久しぶりの校舎。わずか2ヶ月ちょっと間だったけど、随分懐かしく感じた。
校庭では部活をする生徒達の姿。
見知った顔もちらほら。校庭の端っこでは、舞美とえりかが木陰で、バドミントンのラケットを持って笑いあっている。

「・・・・・・・・・・」

でも。声はかけない。かけられるワケがない。
生徒達の賑やかな部活動を横目に、桃子はまっすぐ、梨沙子の待つ美術室へと向かった。








「遅かったね、もも。何処行ってたの?」

美術室へ入ると、そう言って梨沙子が不安そうな顔で桃子を見つめた。
桃子は誤魔化すように笑う。「ちょっと、寄り道」
そして。ふと、梨沙子の隣りに目を向けると、そこには佐紀がいた。
佐紀も呼ぶとは聞いてなかっただけに、桃子は意外そうな顔を見せ、問いかけた。

「あれぇ?佐紀ちゃんも居たんだ?」
「うん」

佐紀はニコニコと微笑む。
私服姿なので部活動とかでは、勿論ないようだった。
佐紀は梨沙子と目線を合わせてクスクスと笑ったあと、答えた。

「今日。お姉ちゃんに無理矢理つれてこられたの。飯田先生と3人で相談って・・・」
「・・・・・・・・」
「でも、うちは話す事なんて何もないから。会議室、出てきちゃった」
「・・・・・・・・」
「そしたら廊下で会ったんだよね。りーちゃん」

笑いあう2人。
桃子はなんとも言えない複雑な表情で2人を見るしかなかった。



クーラーをつけていないようで、美術室の中は随分と蒸し暑い様子だった。
桃子が美術室の壁に掛かっている温度計を見つめると、メモリが30度をさしていた。真夏日。
美術室では、梨沙子が黙々と油絵の準備をしている。キャンバスを立てる。
そんな梨沙子を見ながら、佐紀は机の上に座り、両足をブラブラさせていた。
まるで温室の様な、暑い部屋の中。
でも、梨沙子はなんとなく、暑さ以上の汗をかいている様な気がした・・・。

「梨沙子・・・大丈夫?」

桃子が問いかけると、梨沙子は弱弱しく頷いた。

「うん・・・」

顔色がいつも以上に悪く見える。
しかし梨沙子は淡々と準備を進めると、筆を手にし、桃子に呼びかけた。



「もも・・・そこに立って」



梨沙子に言われるまま、美術室の窓際に立つ。
構図を決めているのか、しばらく、窓際に立つ桃子をじっと見つめる梨沙子。
やがて梨沙子は、キャンパスに鉛筆で器用に線を取っていった。
梨沙子の頬を伝い、汗がポタポタと床に落ちる。机に座っている佐紀が、不安そうに梨沙子に問いかけた。

「暑い?窓・・・開けようか?」
「・・・・うん。ごめん」

佐紀はトトトと駆けつけ、桃子の後ろの窓を開ける。
その瞬間、風が吹き込んでくるが、桃子のカラッポの体は風を感じることがない。
代わりに梨沙子の髪の毛が、風に靡き揺れている。
無言のまま絵を描く梨沙子を見つめる、桃子と佐紀。梨沙子は淡々とペンを動かし続ける。
刹那。不意に窓から、激しい風が部屋の中に吹き込んできた。
桃子の背中の後ろで、窓の白いカーテンがブワッと風で舞い上がり、揺れた。


「羽みたい」


佐紀がポツリと呟いた。
桃子が不思議そうに振り向くと、佐紀は目を細めて「カーテン」と笑う。

「なんか、天使の羽みたい・・・」

梨沙子はゆっくりとペンを動かす。
イラストの中の桃子の背中に、大きく舞い上がる羽が描かれた。
梨沙子はキャンパスを見つめながら、フッと目を細めた。
「なんで、ももはこの世に取り残されたんだろうと思ってたけど」
「え?」
嬉しそうに桃子を見て笑う梨沙子。
「もしかしたらももは・・・天使なのかもしれないね?」
「・・・・・・・・」
俯く桃子。キュッと唇を噛み締める。
暑い日差し。焼け付くような熱気。ボタボタと床に零れる梨沙子の汗。




      ×         ×        ×




「あの子はきっと・・・死神」
「え?」訝しげな飯田に、石川はゆっくりと答えた。
会議室では、石川と飯田が佐紀の事について、相談をしていた。
そして、その途中に梨沙子の話題が出た瞬間、石川はハッキリとした口調で、こう断言した。

「嗣永さん。きっと彼女は死神なんだと思う」
「・・・・・・・」
「梨沙子ちゃんを生きながら殺していく死神」
「・・・・・・・」
「一緒にいると、取り殺されていく」

意味が解らないと言った表情の飯田。
困ったようすで肩をすくめると、飯田は石川の顔を心配そうに覗きこんだ。

「一緒にいるとって・・・どう言う意味?彼女はもう、死んだのよ」
「・・・・・・・・・」
「そうでしょ?梨沙子ちゃんだけが、桃子ちゃんがまだ生きてると、思い込んでいるだけ」

石川は無言のまま飯田の顔を見つめる。
霊の存在を知らない人間は幸せだ。素直にその死を受け入れる事が出来る。
ホンの少しでも霊に関わってしまった人間は、確実にその人生を狂わされてゆく・・・。




      ×         ×        ×



美術室。
一心不乱に油絵を描く梨沙子。
次第に零れる汗の量が増える。尋常ではない。
佐紀がその様子にさすがに不穏を抱き、梨沙子の肩にそっと触れた。

「ねぇ?平気?窓閉めて、クーラーつけようか?」
「だいじょうぶ・・・」

佐紀は不安そうに梨沙子の肩を触る。だが桃子は、何も出来ない。
ただ、梨沙子の様子が異常なのだけが、ハッキリと解る。
桃子は小さくかぶりを振ると、口を真一文字に噤み、梨沙子へと呼びかけた。

「もう。絵、描くのよそう・・・」
「・・・・・・・・」
「ね?」

梨沙子が泣きそうな顔で桃子を見つめる。汗がボタボタと床を濡らす。
桃子は窓際から離れ、ゆっくりと梨沙子へ歩み寄った。
心配そうな優しい眼差し。
梨沙子はフッと微笑むと、縋るように、その右手をゆっくりと桃子へと伸ばした。
だが。その瞬間、梨沙子の右手から油絵の筆がボトリと落ちる。

「梨沙子・・・・?」

俄かに立ち止まる桃子。
そしてそのまま。
梨沙子は力を失うように、2人の目の前で、膝から床へと崩れ落ちたのだった。









「り、梨沙子!!!!」


お腹を押さえ、苦しそうに小刻みな呼吸を続けている梨沙子。
佐紀が愕然とした表情で、傍らで立ち尽くしている。
桃子は急いで梨沙子の背中に触れようとするが、触れる事など出来ない。どうする事も出来ない。助ける事も出来ない。

「だ、誰か・・・!!」

桃子はすぐさま美術室を飛び出す。
誰もいない、静まり返った廊下。
だが、向こうの方から部活の練習を終えたらしき舞美とえりかが、笑いながら歩いてくるのが見えた。

「あ!!えりかちゃん!舞美!!梨沙子が、梨沙子が・・・!!」

2人の元へ駆けつけ、必死になって呼びかける。
だが、2人は桃子に気づくことはない。
桃子のカラッポの体を通り抜け、2人はジャージ姿のまま「お昼、どっしよっか〜?」と笑いながら、廊下をオシャベリして歩いて行くだけだった。

「舞美・・・。えりかちゃん・・・」

桃子は呆然と、2人の背中を見送るしかなかった。
泣きたくなる。今ほど、自分を不甲斐なく感じるときは無い。
桃子は廊下で大声を上げ、叫ぶ。誰でもいいから、自分の声を聞きつけて欲しかった。






「ねぇ、誰か!!梨沙子を助けてよ!!!ももの声、聞いてよ!!!!」






しかし。声は誰にも届かない。
虚しく廊下を響いていくだけ。幽霊の声は誰の耳にも届かない。
美術室へ戻ると、梨沙子がうずくまったまま呻き声をあげていた。
佐紀が一生懸命、必死で梨沙子の背中をさすっているが、どうする事も出来ない。
桃子は佐紀のすぐ隣りに立ち、呼びかけた。

「佐紀ちゃん・・・誰かを・・・。誰か呼んで来て!!佐紀ちゃん!!」
「え・・・・」

その言葉に、佐紀は愕然の様子で目を見開く。

「で、でも。うちは・・・」
「お願い!ももの声は誰にも届かない!誰も気づいてくれない!!でも、佐紀ちゃんが呼びに行ってくれれば、誰かしら駆けつけてくれる!!」
「でも、うち・・・」

声が震える。
誰かと話すなんて出来ない。もう3年も誰とも口を聞いていない。
佐紀は思わず後ずさる。すると、踵の辺りに梨沙子の腕が当たった。
足元にはうずくまって苦しむ梨沙子。尋常ではない苦しみ方に怖くなってくる。
すると・・・桃子は佐紀の顔に自分の顔を近づけ、大声で怒鳴りつけた。

「早く!このままじゃ・・・梨沙子、死んじゃうかもしれないよ!!!」
「・・・・・・・・・」
「死んじゃってもいいの?!!」
「で、でも。うちは・・・」

完全に逃げ腰で怯えている佐紀。
桃子は自分の不甲斐なさが嫌になってくる。
梨沙子を助けられない。そして佐紀を説得する事も出来ない。
悔しくて悲しくて、桃子はギュッと唇を噛み締める。涙の代わりに、想いがボロボロと零れ落ちた。

「ねぇ、佐紀ちゃん」
「?」
「前に言ってたよね?自分は生きてる人間より、死んだ人間の方が好きだ・・・って」
「・・・・・・え?」

突然の桃子の問いかけに戸惑う佐紀。
すると、桃子はまるで泣き叫ぶ様に、そのあとの言葉を続けた。

「じゃぁ、梨沙子もそうなの?!!佐紀ちゃんは、生きてる梨沙子より、死んだ梨沙子の方が好きなの?!!」
「・・・・・・・・・」
「梨沙子が死んじゃったほうが、佐紀ちゃんはずっと嬉しいの?!!」

佐紀は目を見開く。そしてじっと、床に倒れる梨沙子を見つめる。
途切れ途切れの息。苦しそうにお腹を抑えたまま、口元からは唾液が零れていく。苦しみもがく友達。
次第に体が震えてゆく。佐紀は桃子の顔を見ると、桃子は顔をグチャグチャにして泣いていた。
幽霊の体に涙は零れないけど、桃子はメチャクチャに泣いていた。泣き叫んでいた。

「そんなワケない!人が死ぬことが嬉しいワケないじゃん!!生きてるほうが嬉しい!!そうでしょ?!!」
「・・・・・・・・・・・」
「お願いだから、梨沙子を助けて!!!ももじゃ、死んだももじゃ、どうする事も出来ないから!!!」
「・・・・・・・・・・・」
「でも。佐紀ちゃんは生きてるんだから!!佐紀ちゃんは人を助ける事が出来るんだから?!!!」

美術室に桃子の叫びが響き渡る。
焼きつくような熱気が教室を包む。
零れ落ちる汗。佐紀の頬に、一筋の雫が伝わって行った。








会議室では、飯田と石川が話している。
石川の目は真っ赤に腫れ上がっていた。

「ねぇ。飯田先生。佐紀は生きてるって言えるのかな・・・?」
「石川・・・さん」
「誰とも交流を失って、言葉を失って、心を失って」
「・・・・・・・」
「あの子は本当に、生きてると言えるんですかね・・・飯田先生」

生きてる人間を嫌い、死んだ人間にだけ心を許し。
周りの生ある人間から、次第に取り残されていく佐紀。
果たして、この子は生きてると言えるのだろうか?
生きている人間と生きる事を拒否する佐紀は、もしかしたら、死んでいるも同然なのかもしれない。
そして自分は、姉妹なのにそんな佐紀と分かち合う事はおろか、言葉を交わすことすら出来ない。

「どうしたら、あの子は・・・」
「石川さん・・・」

石川がギュッと唇を噛み締めると、飯田は慰めるようにその肩を優しく叩く。
誰よりも石川が佐紀の事を案じている事を、飯田は知っていた。
だから、だからこそ・・・飯田はいつだって、この姉妹の絆を繋げてあげたいと望んだ。
心の底から思う。もし、この世に神様がいるのなら、どうかこの姉妹の途切れた絆を・・・。



――バタン!!!



それは突然の事だった。
会議室の扉が激しい音を立てて開く。
廊下からは、汗まみれの佐紀。石川が目を丸くして、佐紀を見つめる。

「佐紀・・・!」

飯田も、大きな目をさらに大きくして唇を振るわせた。
「佐紀ちゃん。どうしたの?」
すると佐紀は、フラフラとした足取りで、石川へと近づいた。
そして、搾り出すように、細い声をあげた。
「助けて・・・」
「え?!!!」
顔を上げると、佐紀は泣いていた。
泣きながら石川の体に縋り、そして細い声は俄かに大声になり、石川に呼びかけた。


「お願いだから!梨沙子を助けて!!梨沙子が死んじゃう!!」


石川は愕然と肩を震わせた。
何がどうなってるのか解らないが、確かに佐紀は、自分に話しかけている。
3年ぶりに・・・自分に話しかけてくれている。

「さ。佐紀。あなた・・・声・・・」

石川の驚愕の様子に気づく事無く、佐紀は石川に縋って泣き続ける。
一心腐乱で「梨沙子を助けて!!」と繰り返し泣き叫ぶ佐紀に、飯田がその肩を優しくすさぶる。

「お、落ち着いて!!佐紀ちゃん。梨沙子ちゃんが・・・・梨沙子ちゃんがどうしたの?!!」
「梨沙子が、梨沙子が・・・」


――その瞬間だった。


蒸し暑い部屋の中。
突如として、石川の体に異変が起こった。

「?!!!」

蒸すような暑さの中、急激な寒気が体を襲った。
何かに押さえつけられる心。「な、なに・・・」石川は目を見開く。
すると、石川のすぐ横に、女の子の顔が見えた。
そして次第に、体が心が、何者かに支配されていくような感覚を覚える。これは・・・。

「あなたは・・・まさか・・・桃子・・ちゃん・・・?」

この感覚はそう。かつて霊媒師であった自分には、よく解る。
降霊をして、霊が乗り移った時の感覚。
すぐに解る。自分の体に、幽霊が無理矢理入り込もうとしているのが。

「や、ヤダ・・・やめて!!桃子ちゃん、やめて!!!」
「お姉ちゃん!!」

石川の体に縋る佐紀が、泣きはらした目で不安げに石川を見上げる。
飯田も「石川さん?!ど、どうしたの?!!」と叫び、その肩を揺するが、体はもう、自制が効かなくなっていた。

「いや・・・いやーーーーーー!!!!!」

激しい悲鳴。膝から崩れ落ちる石川。
だが、崩れ落ちたのもつかの間。すぐに石川は、再び起き上がる。
その目はまっすぐ、会議室の外、廊下を見据えていた。

「早く。梨沙子を早く!!」
「おね・・・。も、もしかして・・・もも?!!」

すぐさま会議室を飛び出し、石川は廊下を駆け出して行く。
飯田と佐紀も石川を追い、美術室へと向かった。




開け放たれた美術室の扉。
中では梨沙子が蹲り、その背中を激しく震わせていた。

「梨沙子!!!」

蹲っている梨沙子を抱き上げる石川。
すると、梨沙子はその声と体に反応し、ゆっくりと薄く目を開けた。

「も・・・も・・・・?」

ぼんやりとした輪郭。
顔ははっきりと見えないが、梨沙子の目には、不思議と桃子の姿が見えた気がした。

「も・・・も・・・。助けにきて・・・くれ・・・た・・・の。も・・・も」

手を伸ばす。
石川の頬に触れる梨沙子の手。
飯田は真っ青な顔のまま、急いで美術室を飛び出し、電話へと走った。

やがて。
救急車のサイレンが遠くの方から響き渡って来た。



(第9章 舞い降りた天使 FIN)