第7章 交わらぬ世界






笑顔を失ったのはいつからか・・・。


会社で友達と笑っていても、本当の笑顔なんて零れない。
いつでも耳元であの子が囁く。「私を殺したお前に、笑える資格はあるのか?」と――。
最後に見た光景が忘れられない。
メタリックシルバーの車体が赤く染まる。
血だらけのあの子が、目を見開き凍りついたような表情であたしを見た。
あの末期の表情が、心を縛り付ける。きっと彼女は恨んでる。きっと彼女は憎んでる・・・。

青春の真っ只中の女の子が、青春を血で染められた。恨まないワケがない。
あの交差点に立つと、いつでも寒気を感じた。目に見えるわけじゃない。だけど、心が感じる。
きっとあの子はあの場にいると。あの場所でずっと、憎み続けてる。

――お願いだから許して!!

まるで贖罪の様に心の中で叫び、毎日あの場所に花を供える。
真っ赤なフリージア。
もう1年も繰り返している。
だけど、あの子はまだ、きっと許していない。今もあの場所で、あたしを憎み続けている。



あの交差点へ向かう時。
まるで神様が導いてくれたかの様に、あの場所で学生時代の友人に会った。
彼女はお寺の娘で、その後、霊媒師や降霊の仕事をしていると言うのを、風の噂で聞いた事があった。
これはきっと、神様の恩恵――。
彼女に出会えた事は、きっと神様があたしにくれたチャンスなんだと思った。

あたしは泣いて彼女に縋った。助けてくれ。霊を祓ってくれ、と。
でも、彼女は断った。
自分はもう、霊に関わる仕事はしていないと。幽霊に関わる気はないと。
そう言われて、その場は諦めかけたけれど・・・交差点の霊は今も消えない。


あれから必死で彼女の家を突き止めた。
高校時代の友達に電話して、片っ端から聞いて回った。
彼女の家の場所まで知ってる人はいなかったけど、彼女と年賀状のやりとりをしていた子がいて、住所を教えてくれた。
家にまで押しかけてきて彼女は狼狽していたけど、そんなのは気にしていられなかった。ともかく必死だった。
そして。あたしはもう一度、泣いて乞うた。

「助けて・・・お願いだから!!!」

彼女は凄く困っていた。
でも、最後は私の言葉に頷いてくれ。そして言った。
「本当に除霊できるかは解らない。きっと出来ないと思う」と。
でも。それでも構わなかった。今、あたしが頼れるのは、紛れも無く彼女だけだったから――。







学校の職員室では、飯田と石川が話していた。
いつもは石川が佐紀に関して飯田に相談をするのに、今日は逆だった。
飯田はすっかり気落ちした表情で、石川に言った。

「最近、梨沙子ちゃんもおかしい。佐紀ちゃんと同じ感じなの・・・」

明るい子だったのに。どうして・・・。
飯田は悲しそうに項垂れる。石川はそんな飯田を見ながらギュッと目を細め、心の中で呟いた。
そう、明るい子。
佐紀も元々は、明るい子だった。

「梨沙子ちゃんの友達も、みんな困惑しているみたい」
「・・・・・・・・」
「どう関わっていいのか、解らないって嘆いてた」

佐紀もそうだ。
中学のとき。最初は佐紀の友達も困惑しつつも心配してくれた。
だけどそのうち、みんな佐紀を見捨て、遠巻きにし、気味悪がっていった。
そして。やがて佐紀は、周りの人間から取り残され、いつしか人間を信じなくなっていった。



帰り際に石川は、1年の教室を覗いた。休憩時間で賑わう教室。
窓際の席で1人でぼんやりと座っている梨沙子。
背の高い髪の長い女の子が梨沙子を気にするが、他の子が「いいよ、ほっとこ」と言って止める。
困惑しながらも、背の高い女の子は他の友達に手を引かれ、梨沙子から離れた。
まるで昔の佐紀を見ているかのようだと、石川は思った。
こうして少しづつ、彼女は居場所を失って行く。
霊に関わった人間はみな、不幸になる。
佐紀を生きながらに殺してゆき、柴田から笑顔を奪い、今また1人の少女が周りから取り残されてゆく。


「まるで死神だわ・・・」


幽霊に関わってはいけない。みんな世界が狂って行く。だから自分は、幽霊に関わる仕事を捨てた。
校舎から外へ出ると、外にはジメッとした暑さが広がって行った。
梅雨もとうに終わり、そろそろ季節は夏へと移り変わっていく。

「あの子も・・・嗣永さんも・・・あの交差点にいるのかしら?」

この世に取り残された女の子たちの霊。
彼女達は何を思って、この世界にいるのだろう?
いったい、彼女達はどうしたら・・・この世界を離れることが出来るんだろう?








暑い日ざし。でも、体は熱を感じない。
草木を揺する風。でも、体はその風を感じることが出来ない。
もう、桃子が死んで2ヶ月が経つ。
でも今だに、魂はこの世界に取り残されたまま・・・。

「どうなっちゃうんだろ?あたし?」

失われた体。この世界に居場所なんて、本当はない。
だけど梨沙子はどう言うわけか、桃子を、桃子だけを見ることが出来る。
そのお陰で、本当は居場所のないハズのこの世界に、居場所を見つけることが出来た。梨沙子の隣り。
でも、それは結局、梨沙子を半分死の世界に引き釣り込んでいるようなものなのかもしれない。
居場所を得た自分の代わりに、梨沙子が次第に居場所を失ってゆく。この世界で・・。


風が吹き抜ける。
いつも川原を散歩している、おじいさんとジョンがやってくる。
死んでから、この川原を昼過ぎに散歩するのが、桃子の日課だった。
そしておじいさんも毎日、同じ時間にこの川原に来るらしく、しょっちゅう、おじいさんとは会っていた。

「おじーちゃん、こんにちわ〜」

すれ違いざまに笑いながら声をかける。
勿論声は届かない。毎日会ってるけど、おじいちゃんは桃子を知らない。
でも、桃子はおじいちゃんがココを毎日散歩しているのも知ってるし、犬の名前がジョンなのも知ってる。
くいしんぼーで、ビーフジャーキーが大好きなのも知ってる。


一方的な思い出。


でも、それは仕方がない。
何故なら自分は、本来この世界にいてはいけない存在だから。
こんなに近くにいても、交わることの出来ない世界。
そして、その交わる事の出来ない世界の桃子と交わる事の出来る梨沙子。
梨沙子の世界が少しづつ狂っていくのも、当然なのかもしれない。


間違いなく、自分の存在がいけないのだろう・・・。


梨沙子の世界が狂ったのは、自分の責任。解ってる、解ってるけど――。
どうすればいいのかが解らない。
どうすれば自分はこの世から消える?どうすればこの世から成仏できる?
そして、本当に消えたら、自分は一体何処に行くんだろう?天国?この世界に本当に天国なんてあるのだろうか?


目の前では、ジョンが嬉しそうにジャーキーを頬張っている。


結局、自分は何も解っていない。
どうしたら、この世を離れられるのか?
この世を離れたら、一体どこへ向かうのか?
何故自分は取り残されたのか?
自分は一体、何者なのか・・・?




      ×         ×          ×




やがて。
交差点につくと、いつもどおり茉麻が座っていた。

「おはよ、もも」
「うん」

足元でフリージアが揺れる。
相変わらず柴田の心は今も、この交差点に取り残されたまま。

「どうしたら忘れてくれるのかな?柴田さん」
「・・・うん」
「もう、忘れていいのに――」

柴田は茉麻を見ることは出来ない。
だけど、彼女も幽霊に関わってしまった人間の1人なのかもしれない。
桃子と茉麻でぼんやりとフリージアを見つめていると、茉麻がポツリと呟くように言った。

「一度だけさ、柴田さん。笑ったことがある」
「え?」
「薄く・・・微笑んだだけだけど」

いつもどおり柴田がフリージアを供えに来たら、女の子が話しかけた。
「綺麗なお花〜」「そうだね」「なんて言うの?」「・・・フリージア」「へぇ〜」
すると女の子が、すっごい嬉しそうに笑って、こう答えた。
「おいしそーー!!」
その時の事を振り返りながら、茉麻は楽しそうに笑っていた。

「あたし、隣りで聞いててさ。大笑いしちゃった」
「あはは。それは面白いね!」
「でしょ?で・・・したらね。柴田さんも、ホンのちょっとだけだけど笑ったの。口元を緩めて。ホンのちょっとだけ・・・」

この交差点に取り残されてから、茉麻は一度も柴田が微笑むところを見ていない。
いつも無表情に、ただじっと、祈っているだけ。
正直、茉麻は柴田を見て『この人に、本当に笑顔なんて存在するのだろうか?』とすら、思っていたけど・・・。
女の子の心とろかすような笑顔は、柴田の凍りついた表情を、ホンの僅かだけど溶かしてくれた。
溶かされた笑顔はびっくりするぐらい優しくて、柔らかな笑顔だった。

「なんか、心が痛んだ。心なんてとっくに失ってるハズなのに、チクリと痛んだ」
「・・・・・・・・・・」
「その時、思ったんだ。もっと笑顔を見たいって・・・。ホントは、きっともっと、素敵な笑顔なんだろーなーって」
「・・・・・・・・・・」
「柴田さんが本当に笑ってくれた時、まぁは初めて、成仏出来る気がする・・・」


じっと茉麻の言葉に耳を傾けている桃子。
すると、桃子は不意に後に気配を感じた。
桃子が振り返ると、そこには柴田がフリージアを手に立っていた。

「柴田さん・・・」

柔らかく微笑む茉麻。柴田の手に握られたフリージアが揺れる。柴田の髪の毛も揺れる。
いつもどおり、フリージアを手に無表情に立ち尽くす柴田の姿。
だが、何かがいつもと違った。
ふと柴田の後にもう1人、連れの姿が見え・・・桃子は思わず呟いた。

「石川さん・・・」
「え?」
「何故、ここに・・・」

桃子は思わず息を呑んだ。
そこには、振り返りじっと石川をみつめる柴田の姿。
そして、柴田は石川に向かい叫んだ。

「お願い、梨華ちゃん。この交差点・・・この交差点で除霊をして!!!」
「!!!!」

驚きのあまり言葉を失う桃子と茉麻。
柴田はまくし立てるように、言葉を続けた。

「お願い、梨華ちゃん。あたしを幽霊の憎しみから解放してよ!!!」

柴田の言葉に「え・・・・」と、目を丸くする桃子。
憎しみ。それはどう言うことなんだ?
解らない。解らないけど・・・。
桃子と茉麻の目の前で、柴田は突然狂ったように泣き叫んでいた。
柴田の目は、何もない空間を捉えながら。


「もう、許してよ!!あたしを憎まないで・・・お願い。あたしを許して――!!!」


「なにを・・・言って・・・」
桃子は何も言えず茉麻を見る。
茉麻の大きな目が、より大きく見開かれていた。
ボロボロと涙を零している柴田、完全に取り乱しているのがわかる。
今までの思いをぶちまけるように、泣きながら、ただ、喚き散らしている。

「事故を起こしたのは悔やみきれないよ!?泣いて謝ったって許して貰えないのは解ってる!でも・・・あなたが飛び出してきて、あたしは必死でハンドル切った!!」
「柴田さん・・・」
「あなたにだって、飛び込んできた責任はあるはずじゃない?!あたしだけが悪いワケじゃない!!」
「・・・・・・・・・・」
「1年間、あなたに許してもらおうと、毎日フリージアを添えた。何をやっても心が苦しくて、会社も辞めた。1年間、こんなに苦しみ続けてきたんだよ?!」
「・・・・・・・・・・」
「もう、お願いだからあたしを許してよ!!!」

泣きながら土下座をする柴田を見て、何も言えない2人。
茉麻の肩が微かに震えているのを、桃子は感じた。

「もう充分、あたしを憎んだでしょ?!あたしを苦しめたでしょ?!もう、許してよ!!」
「ちが・・・あたしは・・・まぁは・・・」
「もう、恨まないで!!」
「あたしは、恨んでなんか・・・」
「憎まないで!!」
「違う。憎んでなんか・・・」
「もう許してよ・・・茉麻」
「許してる。まぁはもう、あなたの事は許して・・・」

柴田の後ろで石川は、何も言わず立ち尽くしていた。
その目はじっと、柴田の背中をみつめているだけ。止めることもフォローすることもない。自由にぶちまけさせているのだろう。
柴田の叫びは尚も止まらない。

「お願いだから、消えて!成仏して!あたしの中から消え去って!!」
「ま、まぁは・・・」
「あなたがいる限り、あたしは笑うことが出来ない!お願い・・・消えて。もう、許してよ、お願い!!」

柴田の一方的な叫びは、桃子と茉麻の胸に、切り裂くように鋭く響く。
だが茉麻の声は、柴田には届かない。
恩赦の声は決して届く事無く、自分勝手な責苦だけが、2人の耳に降り注いでくる。


「違う・・・柴田さん。まぁは・・・あなたのことが・・・」


震える茉麻の声。
瞬間。
茉麻の目に、一方的に喚き散らす柴田へと、飛びかかる姿が見えた。
それは桃子。桃子がまっすぐに柴田に飛びかかり、コブシで殴りつけようとしていた。

「も、もも!!!」
「ふざけるなぁああ!!」

思いっきり振りかぶる。だが、コブシは触れることがない。
空を切り、柴田の顔をすり抜けるだけ。
だが、怒りは止まらない。当たらないと解っているのに、何度も桃子は柴田に殴りかかる。

「なにも。なにも知らないくせに!!!」
「もも・・・」
「まぁが、あなたをどう思ってくれてるのか・・・なんにも知らないくせにぃ!!!」
「・・・・・・・・・」
「なにが恨まないでだ!なにが憎まないでだ!!」
「・・・・・・・・・」
「ただ一方的に、恨んで憎んで、人を傷つけているのは・・・あなた自身じゃんか!!!」

不思議と桃子は目頭が熱くなるのを感じた。体なんて、もうないのに。
悔しくて悔しくて、コブシを当てることすら出来ない自分がもっと悔しくて。どうしようもなくって、ひたすらに殴りつける。ひたすらに空を切る。
決して触れない体。触れられない世界。触れる事ない気持ち。

「なんにも知らないくせに・・・なんにも知らないくせに!!!」
「もういいよ!もも!!」

大声で叫び、後から茉麻は桃子の体を抱きとめる。
抱きとめられた後も、桃子はしばらく腕の中でもがいていたが、やがてぐったりと肩を落とし、嗚咽を漏らし始めた。
茉麻はギュッと桃子の体を背中越しに抱き締めた。そして、震える肩に、そっと顔を埋めた。

「ありがとう、もも」
「うっ・・・ヒック・・・」
「もういいよ、もも。もういいから――」

交差点に日が沈んでゆく。
交わる事のない世界。交わる事のない想いは、ただ夕陽と共に闇へと沈む。




(第7章 交わらぬ世界 FIN)