第4章 見えざる想い





「ねぇ、もも。この問題、どーやって解くの?」
「これはねぇ・・・」

早朝の菅谷家。
梨沙子の部屋では、頭を抱えて数学の教科書を広げている梨沙子と、そんな梨沙子に勉強を教えてあげている桃子の姿があった。

「も〜!昨夜のうちにやっときなよぉ、梨沙子」
「ごめん。忘れてたの。でも、ももがいて助かったー!」
「あたしは家庭教師じゃないんだからね」
「あはは。解かってるよ」

そう言って調子よく笑っている梨沙子。
そしてノートをしまうと、急いで制服に着替えカバンを手に取る。

「じゃ、行って来るね、もも!!」
「いってらっしゃーい」

呆れ顔で手を振る桃子。
梨沙子はパタパタと忙しなく階段を駆け降りて行った。
あの事故から、3週間。
未だに桃子はこの世に取り残されたまま、梨沙子の部屋に住まわせてもらっていた。

「まったく。ヒト使いが荒いんだからなぁ〜」

呆れ顔で笑う桃子。
だが、騒がしい梨沙子がいなくなると、部屋の中が急にシーンと寂しく感じる。
なんとなく桃子が、梨沙子の散らかりまくった机の上を見ていると、教科書の下に写真が何枚か置いてあるのが目に止まった。
去年、桃子と梨沙子と雅で遊園地に遊びに行った時のスナップ写真。
桃子は手を伸ばして写真を見ようとする。だが、手は写真を掴む事無く、虚しくすり抜けた。

「・・・・・・・・・・・」

時々。
梨沙子と一緒に話していると、自分が幽霊である事を忘れる。
そして忘れた後に、こうして自分が幽霊である事を思い知らされる・・・。
何かを振り払うように、ブンブンとかぶりを振る桃子。そして、ボソッと呟く。

「まぁに会いに行こ・・・」

地縛霊の茉麻は、いつも交差点にいる。
梨沙子が学校に通っている日中は、川原で散歩をしてから交差点に向かい、茉麻に会いに行くのが日課になっていた。
だが、茉麻に出会ってから、桃子の中にはある疑問が浮かぶようになっていた。


茉麻は自分を地縛霊だと言った。
じゃぁ、ももは?
自分は一体、何者なんだろうか?
そして、何故・・・梨沙子は自分が見えるのか?
何故、梨沙子は。自分しか・・・見えないのか?


決して答えなんて出そうもない疑問。
桃子はフゥと息を吐くと、梨沙子の机に散らばっている教科書を眺めた。
学校の授業ではこんな問題は一度も出なかった。サイン コサイン タンジェント。そんなの知ってた所で、なんにも解決なんてしない。

「学校の授業って、ホント、無駄だったんだなぁ〜」

そんな事を呟く桃子。
そして桃子は梨沙子の部屋を離れ、いつもの川原へと向かった。
机の上には教科書と・・・3人の思い出が取り残されたまま。






昼休憩時間。
教室の窓際の席で、花が揺れる。
梨沙子が2−Bの教室を訪れると、そこには可愛らしいピンクの花束があった。
じっと見つめていると、不意に梨沙子の後から、雅がポツリと呟いた。

「ヒナギク」
「?」
「ももの誕生花」

今日は雅の当番だった。
3週間が経ち、雅も少しは、事故の痛みから立ち直ったようだった。
先週まではロクに昼食すら取らなかったけど、ここ数日はちゃんと、お弁当を食べるようになってきた。
でも・・・。それでもきっと。
雅は今も、悲しみに囚われたままの様な気がした。

「ヒナギクの花言葉は、『明朗』とか『無邪気』とか『お人よし』とか――」
「・・・・・・・・・」
「ホント。朗らかで無邪気でお人よしだったよね、もも・・・」

目を細め、ヒナギクに触れる雅。
照らしつける太陽が、ヒナギクの花と雅の横顔をキラキラと輝かせた。
綺麗だな・・・と、梨沙子は思った。


そんな雅たちの様子とは裏腹に。
昼休憩時間の教室は騒がしく、窓際の席のすぐ側では、男子がふざけあってプロレスごっこをやる姿もあった。
大笑いする男の子たちの声。
やがて、調子に乗ってプロレスごっこをしていた男子の1人が、桃子の机に大きく体をぶつけた。
その瞬間。花瓶が机の上で、激しく傾く。

「あ!!!」

咄嗟に梨沙子が手を伸ばし受け止めようとするが、あと少しのところで手が届かなかった。
花瓶は机の上で大きく倒れ、水をぶちまける。
男子は花瓶が倒れる音を聞き、ハッとした様子で振り返った。その時だった・・・。


「なにしてんのよ!!!」


雅の怒鳴り声。
そして雅は、自分の机に置いてあった学生カバンを、血相を変えて男子に投げつけた。
激しい怒鳴り声と、カバンのぶつかる音に、教室内は瞬時にシーンと静まり返った。

「あ、ご・・・ごめん」

雅の異常なまでの剣幕な様子に青ざめる男子。
申しわけなさそうに、今一度呟く。
「ご、ごめんな・・・夏焼」
雅は桃子の机に近づくと、倒れた花瓶を元に戻す。
ばら撒かれたヒナギクの花も、一本一本拾い上げる。
それを見て、他の子とオシャベリしていた千奈美も、雅の元へ駆けつけ、いそいそと手伝ってあげた。
「男子。ホント、サイテー!!!」
千奈美が横目で見ると、男の子は申しわけなさそうに頭を下げ、縮こまっていた。
きっと彼に悪気はなかったんだろう事は、その様子から掴めた。


梨沙子も雅や千奈美と同じようにヒナギクを拾い上げ、手伝ってあげる。
そして、水の零れている机を雑巾で丁寧に拭いていると、雅がポツリと隣りで呟いた。

「あと・・・もう1個」
「え?」
「花言葉――『幸福』」

なんだか急に、梨沙子は悲しい気持ちに陥った。
きっと。雅はまだ、桃子の事を好きなんだと思った・・・。


今朝、自分は桃子に勉強を教わってきた。


いっぱいおしゃべりをした。「行って来ます」を言ってきた。桃子は今も、すぐ側にいる。
でも、雅はそれを知らない。
大好きな人が、今もこの世に取り残されている事を知らない。

「ねぇ、みや」
「ん?・・・なに?」
「ももは――」

思わず口にするが、すぐに梨沙子は口を噤む。
桃子が幽霊になって自分と一緒に暮らしている事を知ったところで、一体どうなるんだ?
例えそこに桃子が居ても、雅は桃子を見ることが出来ない。話すことも出来ない。
知ったところで、余計つらいだけじゃないか。

「・・・どうしたの?梨沙子」

不思議そうに問いかける雅に、梨沙子は優しく笑いかけた。
精一杯の笑顔を作って微笑んだ。

「ももは――きっと、幸福だね。こんなにみんなに愛されて・・・」
「うん・・・」

雅が嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔がまた、梨沙子の胸をキリキリと締め付けた。








川原の遊歩道。
休日にもなれば、釣りをする親子や犬の散歩をするOLで賑わう遊歩道だが、平日ともなるとひと気も少ない。
桃子が川原の遊歩道に辿り着くと、そこでは、いつものおじいさんが犬を連れて遊んでいた。

「ほれ、ジョン。取って来い」

おじいさんが投げたボールを嬉しそうに追いかけるビーグル犬。
桃子の目の前を走りぬけ、ボールを咥えると、嬉しそうに尻尾を振っておじいさんの元へと戻ってくる。

「いい子じゃ、ジョン。ビーフジャーキーじゃぞ!」

尻尾をふって甘えるビーグル犬。ガツガツとビーフジャーキーを口に含んでいる。
おじいさんは毛並みを揃える様に、よしよしとジョンの頭を撫でていた。
そんなやり取りを、楽しそうに見ている桃子。

桃子は幽霊になってからほぼ毎日、川原の遊歩道を散歩するのを日課にしていた。
そして、ここを散歩すると、よくおじいさんとジョンのお散歩に遭遇した。
もちろん、おじいさんに桃子の事は見えない。桃子は一方的に、おじいさんを見ているだけ。
だけど。不思議なんだけど・・・ジョンは時々、桃子の方を振り向く事が何度かあった。
振り向いて、キョトンとした丸い目を桃子へと向ける。
それはあくまで、偶然なのかもしれないけど、もしかしたら動物の本能的なもので桃子の存在に気づくのかもしれない。
そして。それがともかく、桃子は嬉しかった。

「じゃぁね、ジョン。またね〜」

誰かに気づいてもらえる・・・。
そんな、たったそれだけの事だけど、不思議なぐらい嬉しかった。





やがて。川原の遊歩道を離れ、桃子は交差点へと向かう。
すると、そこではすでに佐紀と茉麻が集まっており、2人で楽しそうにおしゃべりをしている姿が見えた。

「あ、ももー!!」

茉麻が桃子に気づき、大きく手を振る。
だが、桃子は手を振り返しながらも、目線は不思議そうに佐紀を見た。

「あれ?学校は?」
「うん・・・・」
「いいの?」
「3人でお喋りしてる方が楽しいから」

そう言って佐紀は笑っていた。
茉麻と出会った翌日、桃子は佐紀をこの交差点へと連れてきた。
佐紀はやっぱり、茉麻を見ることが出来たのだった。
そして最近は、よく3人で時間を過ごしている。なんて事ない会話で、日没まで話している。

「あはははは」

茉麻のおちゃらけた言動に、佐紀が楽しそうに笑う。
すると、すぐ近くを歩いていた買い物途中の主婦が、不審そうに佐紀を顧みた。
そして主婦2人で、気味悪そうに顔を顰めながら、なにやらヒソヒソと話していた。

「・・・・・・・・・・」

それを見て、桃子は何も言えなくなって黙り込んでしまう。
梨沙子と話してるときもそうだ。
時々自分でわからなくなるけど・・・他の人間には、自分と茉麻の姿は見えていないんだ。
たとえ3人で仲良く喋っていた所で、周りの人間には当然、佐紀が1人で喋ってるようにしか見えないんだろう。
桃子は心配そうに佐紀を見るが、佐紀は苦笑いで肩をすくめるだけだった。

「だいじょうぶ。うち、慣れっこだから」
「・・・・・・・」
「こうやってどんどん、周りの人間に気味悪がっていかれたんだ・・・」

佐紀の言葉に、思わず顔を見合わせてしまう、桃子と茉麻。
だが、佐紀は「気にしないでいいよ」と笑った。「周りの人間なんてどうでもいいから」・・・と。
そう。初めて会った日にも、佐紀は言っていた。
自分は生きてる人間より、死んで幽霊になった人間の方がずっと好きだ。
だから、周りの人間に気味悪がられても、桃子や茉麻とオシャベリできる方が、ずっと嬉しいと・・・佐紀は言う。


確かに、自分達はこの世に取り残された霊魂。
寂しい自分達は『自分を気づいてくれる人たち』に縋らざるを得ない。
現に犬のジョンが、自分の存在に気づいてくれるだけでも、桃子は嬉しくて仕方がなかった。
それがましてや、佐紀の様に会話が出来るとなれば尚更だ。

そして、佐紀にとっても。

自分を不気味がったり陰口を叩いたりイジメたりする生きた人間よりも、
自分に縋って頼ってくれる幽霊の方が、ずっと優しくて居心地の良い存在なのだろう。
なんとなくだけど、わかる気はした・・・。



でも、だけど。
本当にそれでいいのだろうか?



生きてる人間よりも、死んだ人間と一緒にいる事を選ぶと言うこと。
それは、生きてると言えるのだろうか?
自分を殺してるようなモノなんじゃないか?
自ら死の世界に足を踏み入れてるようなモノなんじゃないか?



何か言いた気な桃子の目線に気づいたのだろう。
佐紀は「・・・・・・ももが、何を言いたいのかわかるよ」と呟き、俯いた。
キュッと唇を噛む、寂しそうな横顔。

「だから、お姉ちゃんは。幽霊を嫌うんだ」
「お姉さんが?」
「うちがいつしか幽霊にしか心を開かなくなったから。だからお姉ちゃんは、霊に関わる仕事を捨てて、ファミレスとかで働くようになったの」
「・・・・・・・・・」
「お姉ちゃんは・・・幽霊を忌み嫌っている」

佐紀の言葉に、桃子はキュッと唇を噛んだ。
幽霊の立場にある自分だけど、桃子は石川の気持ちが良く解るような気がした。
姉は姉なりに、妹を誰よりも大切に思っているんだろう・・・と思う。
だけど、その気持ちはきっと通じない。佐紀は俯いたまま、ポツリと呟いた。

「でも、うちは。生きてる人間は好きじゃない。みんな大嫌い」
「・・・・・・・・・」
「死んだ人間の方がずっと好き」

それぞれの想い。それぞれの言い分。
なんとなくだけど、どちらの言い分も間違ってはいない気がした。
だから・・・分かたれた姉と妹は、きっと、解かり合えない。






学校では、5時間目終了のチャイムが鳴る。
日直の梨沙子は友理奈と一緒に、物理で使った教材を職員室へと運んでいた。
重そうな荷物をよいしょと持ち直す梨沙子。友理奈が隣りから「だいじょうぶ?」と言って荷物を支えてくれる。
そんなやりとりをしながら職員室へと向かうと、そのすがら、2人は2−Bの教室の前を通りかかった。
教室のドアは閉まっているから、中の様子は見えない。梨沙子がじっと、2−Bの教室を横目で見ながら歩いていると、友理奈が隣りでポツリと呟いた。

「みや。早く元気を取り戻すといいね・・・」
「うん・・・」

友理奈の言葉にコクリと頷く梨沙子。
正直。みんな大切な友達の死にショックを受け、気持ちが参っているのは一緒だった。
だけど、雅の傷の深さは相当・・・。
昼休憩の時の様子を見れば、それは一目瞭然だったし、なんとかして元気付けてあげたいとも思った。
友理奈は教材のダンボールを抱えたまま、小さくため息を吐いた。

「ハァ〜。どうしたら、元気づけられるのかなぁ?」
「わかんない。どうするのがいいのかな・・・あたしたち」

目を細め、梨沙子は呟くように答えた。
幽霊になって取り残された、桃子の事もそう。
この先。どうする事が正しいのか、自分達には何も解からない・・・。

そんな事を話しながら、2人はやがて職員室へ辿り着く。
そして、梨沙子が荷物を抱えたまま、片手で扉を開けようとすると、それより少し早いタイミングで職員室の扉が開いた。

「飯田先生。ありがとう御座いました」

そう言って挨拶をしながら出てきたのは、佐紀の姉の石川だった。
梨沙子は、予期せぬ人物の登場にびっくりして荷物を落としそうになり、慌てて友理奈が隣りから教材を押えてくれた。

「あ、石川さん!!」
「あなたは・・・」

目を丸くして互いに顔を見合わせる2人。
梨沙子の隣りでは友理奈が、教材を押えながら不思議そうに2人の顔を交互に見ている。
しばし見つめ合う2人。
すると、石川は何かを考えるように目線を逸らしたあと、「ねぇ、あなた。授業はいつ終わるの?」と、梨沙子に問いかけてきた。
突然の質問に、梨沙子は一瞬、戸惑う。

「え?あ・・・と。今日はもう、このあとの帰りのHRで終わりです」
「そう・・・。ねぇ、放課後にちょっとだけお話したいんだけど、いいかな?」

お話?一体なんだろう?
不審には思ったけど、梨沙子には特に断る理由はなかった。
石川の問いに梨沙子は少しだけ躊躇った後、コクリと頷いた。

「ありがと」

そして梨沙子は石川に、HRが終わったら学食に来るよう告げられた。
石川はそれだけ伝えると、一足先に学食に行ってると言って、職員室前の廊下を東階段の方へと歩いて行った。
呆然と、石川の背中を見送る梨沙子。
すると。そんな2人のやりとりを見ていた友理奈が、不思議そうに梨沙子に尋ねた。

「なに?知り合い?今の人」
「うん。まぁ・・・」

2人は職員室へと入り、教材を物理の教師へと返す。
そして梨沙子は、職員室の手前の席へと向かうと、職員室の机の上で出席簿などを纏めている飯田に、恐る恐る声を掛けた。

「あの・・・飯田先生」
「ん?どうしたの?菅谷さん」
「石川さん。先生に用があったんですか?」

すると、
飯田は至極意外そうな表情を浮かべ、首をかしげた。

「え?菅谷さん。石川さん・・・知り合いなの?」
「まぁ、ちょっと。」
「あの人は2年C組の佐紀ちゃんのお姉さんで、お母様がいないから、進路指導とかはいつも彼女が来るの」

そう答えながら、飯田はHRで配るらしきプリントを揃えている。
プリントには授業参観が云々と言った内容が書かれていた。
そんなプリントを見つめながら梨沙子は、『じゃぁ授業参観の時は、やっぱり石川さんが来るのかな?』・・・と、思った。
と同時に、梨沙子はふと感じたのだった。
石川はきっと佐紀を大切にしているんだろう、と。だからこうして、学校にも顔を見せるんだ。

「・・・何かあったんですか?佐紀ちゃん」

梨沙子がそう言って問いかけるが、
飯田は困ったような表情を浮かべながら、「ま。色々ね・・・」と言って、言葉をはぐらかすだけだった。





        ×         ×          ×





放課後のチャイムが鳴り響く。
HRが終わり梨沙子がいそいそと学食へ向かうと、窓際の席でコーヒーを飲んでいる石川の姿があった。
「お待たせしました」と言って梨沙子が石川の元へ向かうと、「何か飲む?」と聞いてくれ、梨沙子にコーヒー牛乳をご馳走してくれた。

「ありがとう御座います」
ペコリと頭を下げ、石川の隣りに腰掛けた梨沙子は、コーヒー牛乳をひと口、口に含んだ。
甘い味が口の中にいっぱいに広がって、一日の疲れを癒してくれる。
しばしの間、2人で無言で飲み物を口に含んでいると。
「今日。佐紀の事で飯田先生から呼び出しがあってね」と、唐突に石川が話し始めた。

「最近、佐紀。学校サボってるんだって・・・」

心当たりがないか聞かれるが、ハッキリとは解からない。
だけど。確信はないが、なんとなくだけど・・・解かる気もした。
生きてる人間と交流を断絶しているハズの佐紀が、学校に来ないで、誰と一緒にいるのか。
答えなんて、1つしかない様な気がした。

「もしかしたら。ももと一緒にいるのかも・・・」
「そう。きっとそうね・・・」

石川はコーヒーを一口飲み込むと、フゥとため息をついた。
梨沙子はその隣りで、チビチビとコーヒー牛乳を口に含む。
コーヒーと牛乳の甘い香り。
そう言えば佐紀ちゃんが『牛乳は嫌い。だからコーヒー牛乳も飲めない』って前に言ってたなぁ・・・なんて事を思っていると。

「ねぇ、梨沙子ちゃんだっけ?あなた、佐紀と話せるんでしょ?」
「あ。はい・・・」
「あたしはもう、3年ぐらい、口を訊いてもらえてない」

石川の言葉。梨沙子は思わずその言葉に顔を顰めてしまった。
3年。同じ家に住んでいるのに、3年・・・。
佐紀は言っていた。生きてる人間は好きじゃない。死んで幽霊になった人間の方が好き――と。
それは、例え姉妹でも変わらないんだろう。
例え姉妹でも、生きてる人間は好きじゃない・・・。



「ねぇ。桃子って子に伝えて。佐紀に、もう、近づかないで・・・って」
「い・・・え・・・!?」

突然の言葉に梨沙子は目を丸くする。
一瞬、何を言われてるんだかわからなくて梨沙子が言葉を失っていると、石川は深刻な面持ちでその言葉を続けた。

「あの子は。佐紀は。幽霊に取り憑かれてるようなものなの」
「・・・・・・・・」
「このままじゃ、あの子はどんどん、生きながらに死んでいく――」

幽霊と心を交わしていくうちに、いつしか佐紀は幽霊としか心を交わせなくなった。
佐紀の側に幽霊がいる限り、佐紀はきっと、生きてる人間の元へは戻らない。
幽霊のせいで、佐紀は生きてる人間たちの側から居場所を失ってゆく・・・。
だから、もう二度と。幽霊である桃子には、佐紀へと近づかないでくれ。
そう伝えて欲しいと石川は言った。

だけど――。

梨沙子は俯き、キュッと唇を噤んだ。不満気な表情。
確かに石川の言いたいことはなんとなくわかる。
でも、だけど・・・。

「ももは佐紀ちゃんに取り憑いたりしないよ。優しい子だもん!!」

梨沙子は思わず言葉を荒げる。
なんとなく、桃子が侮辱されてる様な気がして、気が気じゃなかった。
すると、そんな梨沙子を宥めるように、石川は「そうね、ごめんなさい」と言って肩をすくめ、その言葉を続けた。

「確かに、言い方が悪かったかな?」
「・・・・・・・・・」
「でもね。向こうに悪気がなくっても、生きてる人間が死んだ人間に関わる事自体が、すでに問題なの。解るでしょ?」
「・・・・・・・・・」
「あなたも。気をつけなさい。霊に関わると、あなたも佐紀と、同じ運命を辿るかもしれないわよ」

そう言って石川は目を細め、じっと梨沙子を見つめる。
その目がまるで、何か梨沙子の心を見透かすかのように見え、梨沙子は無言のまま、その目線を伏せた。








夕暮れの下校路。
学校からの帰り道、梨沙子はカバンをプラプラ提げてアスファルトの上を歩いていた。
放課後に石川に会ったため、いつもより遅い下校。夕日が西の空に沈んでいる。
そして。歩いているうちに梨沙子は、いつものお寺の前に差し掛かった。
ふと、なんの気なしにお寺の中に目を向けてみると、境内の階段の前に桃子が立っている姿が見え、梨沙子はその足を止めた。

「・・・もも?」

桃子はボンヤリと空を見上げていた。
寂しそうな目。恨めしそうにじっと、天を仰いでいる。
一体、なにをしているんだろう?
ゆっくりとした足取りで梨沙子が近づくと、不意にお寺の砂利道が音を立て、桃子はハッとして振り返った。

「梨沙子・・・」
「どしたの?もも」

梨沙子が問うと桃子はフッと微笑み「空、見上げてた」と言って、再び虚空に目を向け、その目を細めた。
オレンジ色の空と、真っ赤な夕陽。
桃子は空を仰いだまま、ポツリと呟いた。






「この空の向こうに、天国はあるのかな?」






梨沙子は境内の階段に腰を掛ける。カバンを階段に置く。
そして桃子と一緒に、空を見上げた。
夕日がオレンジ色に空を染めている。ため息が出るほど、綺麗な空。
どうなんだろう?この綺麗な夕日の向こうに天国はあるのかな?
だとしたら、天国はきっと、美しい世界なんだろうな――。




目を細め、空を仰ぐ2人。
やがて、梨沙子は境内に腰をかけたまま、ポツリと問いかけた。

「ねぇ、もも。佐紀ちゃんは一緒じゃないの?」
「さっきまで一緒だったけど、今さっき、帰ったよ」
「そっか・・・」

石川の言葉を思い出す。もう、佐紀には近づくな・・・と。
伝えようか一瞬迷ったけど、やっぱり止めた。

桃子は優しいから。それを伝えればきっと、言葉通り佐紀へは近づかなくなるのは解っていた。
でも。天国にいけない桃子は、この地上で人間に頼るしかない。
そんな桃子から、数少ない時間の共有者を奪うなんてこと、とてもじゃないけど出来ないと思った。

石川は言っていた。
佐紀をあんなにした幽霊を憎むと。
だけど、なんとなくだけど、本当に悪いのは幽霊だけじゃない様な気が、梨沙子はしていたんだ。
本当に悪いのは――。





「・・・・梨沙子?」




桃子と梨沙子で夕日を見上げる。
すると。不意に梨沙子の名前を呼ぶ声が聞こえて、2人はそちらを振り返った。
その瞬間。
桃子と梨沙子の間で時がピタリと止まり、やがて、2人の声が同時に重なった・・・。



「「みや・・・」」



2人の目線の先には、雅の姿があった。
薄い笑いを浮かべながら、雅は夕陽の中、立ち尽くしていた。
茶色い髪の毛が、キラキラとオレンジの光に染まっている――。

「みや、どうして・・・」

梨沙子は境内の階段に立ち上がった。
微かに震えを帯びる声。
そんな梨沙子の問いに、雅は小さく微笑み、答える。

「久しぶりに来たくなったんだ・・・」

桃子が死んで以来、雅は一度も『いつものお寺』を訪れる事はなかった。
雅は懐かしそうに辺りを見渡す。
訪れなくなってたった3週間程度なのに、何年も来なかった様に懐かしく感じるから不思議と、雅は笑った。

「あたしたちの思い出の場所だもんね・・・」




微笑みながら、雅はゆっくりと境内の階段へと近づいてくる。
1歩2歩。
そして、境内の階段の前に立つ桃子の下へ、雅はゆっくりと近づいてきた。
思わず笑顔が零れる桃子。一歩前に立ち、桃子は近づいてくる雅を迎えいれる。
「みや・・・」そっと雅へと手を伸ばす桃子。「久しぶりだね、みや・・・」


だけど――。


雅の体は何事もなかったかのように、雅を迎える桃子の体をすり抜ける。
桃子に全く気づく事のない雅。桃子の幽体をすり抜け、雅はまっすぐ、階段に立つ梨沙子へと歩み寄った。
何も言えず・・・呆然と立ち尽くすしかない梨沙子。
階段の下にいる桃子の背中が、微かに震えているのが見えた。


解かっていた。
雅には桃子の姿が見えないのは、2人とも最初から解かっていた。
でも・・・。



「よくここでさ、梨沙子とももとうちで遊んだよね」

嬉しそうに雅は笑っていた。
懐かしそうに境内の柱に触れ「ほら、昔書いた落書きもある!」と、微笑む。
そして。雅は境内を降りると、その隣りにある、大きな桃の木にそっと手を触れた。
新緑に染まる桃の木。
しばし桃の木を見上げたあと、雅はコツンと木に額を押しつけ、ギュッと目を閉じ、言った。

「この木の下でね。一度だけももに・・・好きって・・・言ったことある」
「みや・・・。」
「うちね。ももの事が、ホントに、大好きだった・・・。なのに・・・なんで・・・」

やがて、ポロポロと零れ落ちる涙。嗚咽を漏らして木に縋る雅。
梨沙子が雅の肩に手を触れると、雅は泣きながら梨沙子の体にしがみついた。
抱き寄せる事も何も出来ず、梨沙子はただ立ち尽くした。
雅の肩越しに、桃子が唇を噛んで悲しみを堪えている姿が見え、どうしようもなく心が痛くなる。



そう・・・。
悪いのはきっと、幽霊だけじゃない――。



幽霊を見る事が出来ない、周りの人間も悪いんだ。
周りの人間が幽霊を見る事が出来るなら、佐紀も周りの人間に気味悪がられる事なんてなかった。
周りの人間が幽霊を見る事が出来るなら、桃子もこんなに傷つく事もなかった。
周りの人間が幽霊を見る事が出来るなら、雅だって好きな人を失った悲しみに囚われる事はなかった。
気づいて貰える事のない、取り残された哀れな霊魂たち。



もし、周りの人間が幽霊を見る事が出来るなら・・・・・・。



交差点でフリージアが揺れる。
目を閉じ、自分の罪を悔いるように祈り続ける柴田。茉麻はその背中に呟く。

「もう、忘れていいんだよ?柴田さん・・・」

声は決して届かない。
こんなに近くにいるのに。恩赦の声は決して届かない。
きっと、みんなが幽霊を見る事さえ出来るのならば、こんなにみんな・・・悲しい想いをすることなんてなかったのに。



(第4章 見えざる想い FIN)