第11章 さよなら。大好きな世界
1
良く晴れた朝だった。
桃子はいつもどおり川原に向かい散歩をしていた。
川原の遊歩道には向日葵が何個も咲き並び、匂いは解らずとも、景色から初夏の香を感じる事が出来た。
最後の散歩がこんな素敵な日で良かったと、心の底から思う。
おととい、梨沙子が無事に退院した。
だから。今日がきっと・・・最後の日。
今日、何もかも全てが終わるような、そんな気がした。
毎日続けていた散歩も、今日できっと終わりなのだろう。
桃子はゆっくりと両の目を閉じる。目を閉じると、何もない暗闇だけが脳裏に広がる。
だけど――。
やがて何もない暗闇の中に広がってくるのは、鮮明な記憶。
綺麗な空気。暖かな風。焼きつくような太陽。まばゆい景色も・・・。
体は感じる事が出来なくとも、記憶が感じる。今日は清清しい天気。決して忘れる事の出来ない、最高の日和。
桃子は目を細め、眩しそうに、太陽にきらめく川面を見つめる。
すると、やがて・・・。
いつもどおり、遊歩道の向こうから、おじいちゃんがジョンを連れて川原を散歩しにやってきた。
真っ青な空。清清しい天気に、ジョンの足取りもいつも以上に軽いような気がした。
やがてすれ違う、桃子とジョンとおじいちゃん。
桃子はすれ違いざま、大きな声で手を振り、2人に笑いかけた。
「おじーちゃん、長生きしてね!!ジョンも元気で!!!」
何事もなく通り抜ける2人の背中にひらひらと手を振り、桃子は川原を立ち去った。
おじいさんは桃子を知らない。おじいさんは別に、桃子に会う為にこの川原に来ていたワケではない。
あくまで一方的な記憶なのだろうけど、それでも、この数ヶ月間、毎日会いに来てくれてありがとうと思った。
茉麻の柴田への想いも、きっとこう言う感謝の気持ちから始まったのかもしれないな・・・。
桃子が川原から立ち去った後。
いつもどおり川原のベンチに腰掛け、おじいちゃんはジョンの頭を撫でる。
すると、ジョンはいつも以上に嬉しそうに尻尾を振りながら、おじーちゃんに甘えていた。
「おっ、今日はなんだか嬉しそうだな、ジョン。いい事でもあったのかい?」
おじーちゃんが頭をなでると、ジョンは嬉しそうに尻尾を振りながら、頭を摺り寄せクゥンと鳴き声をあげた。
そんなジョンの頭を、おじいさんはよしよしと抱き寄せる。
「そうか、オマエもいい事があったか。不思議だな」
おじいさんは空を見上げる。
青く広がる空。真っ白な雲。真っ赤に燃える太陽も、まるで絵に描いたような美しさ。
「今日は素晴らしい日和だからかもなぁ。ワシも今日は・・・なんだかとっても清清しい気分じゃよ・・・」
× × ×
やがて、日は高く昇り始める。
最後の散歩を終え、桃子は梨沙子の家に戻った。
すると梨沙子の部屋の中から声が聞こえてきて、桃子が部屋を覗くと、梨沙子が楽しそうにケータイで会話をしている姿が見えた。
どうやら、雅との電話のようだ。
「明日会おうね〜」と言って梨沙子は嬉しそうに笑っている。
退院して、梨沙子はすっかり顔色も良くなったようだった。
電話が終わるや否や、梨沙子はハッとした様子で桃子に気づき、そんな梨沙子に桃子はニヤニヤしながら笑いかけた。
「え?なに?もしかしてデートのお誘い?このこのぉ!!」
「ち、違うよ!プール!明日ちぃと熊井ちゃんとみやの4人で行こうって約束してるの」
「なんだ。Wデートかぁ」
「だ、だから、Wデートじゃないもん!!単に4人で遊び行くだけだって!!なんでデートにしたがるのぉ!!」
恥ずかしそうに顔を赤くする梨沙子が可愛くて、桃子はクスクスと笑い声を零した。
イタズラっぽい顔をして笑っている桃子を見て「も〜!」と怒っている梨沙子。
そんな、小さい頃から繰り広げられているイタズラなやり取り。
なんだかそんなやりとりが無性に嬉しくなって、2人で俄かにクスっと微笑む。
そして、梨沙子はベッドの縁に寄りかかると、うーんと背の伸びをし、桃子の顔を見上げニコニコと笑顔を浮かべた。
「でも、明日はプールだけど、今日は大丈夫だよ。今日はちゃんと、予定空けてあるからね!」
「うん・・・」
そう。今日がきっと、最後の日。
こんな無邪気なやり取りが出来るのも、きっと今日までなんだ・・・。
桃子はふうとため息をつき、窓の外を見た。変わらずカンカン照りの気候。
今日が天気が悪かったら明日にして貰おうかな?・・・なんて。未練たらしいことを考えてたけど、この眩しい空を見ていると、そんな気もなくなる。
桃子は気持ちを落ち着けるようにハァと息を吐くと、独り言のようにポツリと呟いた。
「よし。じゃ、そろそろ・・・レンタルしに行こっかなぁ」
それを聞き、梨沙子が思わずケラケラと笑う。
「てゆっか・・・レンタルって凄いよね」
今日、石川に体を借りる約束をした。
そして、今日が梨沙子との最後の思い出作り。
だからきっと、今日、全てが終わる・・・。
「じゃぁ、行って来るかな」
そう言って石川のところへ向かおうとする桃子。
すると、不意に後から梨沙子が「もも」と、小さな声で呼びかけた。
「ん?」
桃子が振り向くと、梨沙子が何処か名残惜しそうな表情をしていた。
ホントに今日、体を借りてしまうの?今度にしない?
そんな事を言いたそげな顔をしているが、口には出さなかった。
梨沙子はキュッと唇を噛みしめると、満面の笑顔を浮かべ、桃子へと答えた。
「じゃぁ、もも!!またあとでね!!!!」
2
いつものお寺に眩しい夏の光が差す。
桃子が待ち合わせの場所へ向かうと、すでにそこには、佐紀と石川が肩を並べて境内の階段に腰掛けている姿が見えた。
なにやら楽しそうに笑いあっている姉妹の姿。そして・・・。
「あ!ももが、来た!!」
佐紀は嬉しそうに立ち上がり、こちらを指差す。
桃子はそんな2人に手を振りながら、境内の階段へ向かい、ゆっくりと歩んだ。
すると、石川も境内の階段からゆっくりと立ちあがり、手を挙げた。
「来たわね。桃子ちゃん」
「はい。今日1日、体をお借りします」
「フフ・・・せっかくのデートだからね。ほら!オシャレな格好しといたわよ」
そう言って笑う石川の格好は、超ミニスカートに、ノースリーブの露出スタイル。
桃子はそれを見て、恥ずかしそうに笑っている。
「えー?!石川さん、露出高すぎですよぉ!体借りるの恥ずかしいんですけど!!」
「ちょっと!恥ずかしいって失礼ねぇ〜!!」
仏頂面で口を尖らせる石川の隣りで、佐紀が「ね!絶対恥ずかしいよね〜!」と、ケラケラと大笑いをしている。
3年ぶりに姉の前で口を開いたあの日以来、佐紀はよく笑うようになった。
石川の前では勿論、飯田や他の人間の前でも、ちゃんと口を開くようになったと言う・・・。
楽しそうにケラケラと笑っている佐紀を見つめながら、2学期が楽しみだ、と。桃子は心の底から思った。
この様子なら、きっと2学期になればC組のクラスの子とも、また当たり前の様に喋る事が出来るようになるだろう。
そうしたら。C組の舞美やえりかを始め。きっとそんな佐紀を、クラスメイト達は暖かく迎え入れてくれるはずだ。
そんな事を思っていると・・・。
やがて佐紀は目を細め、桃子の目をじっと見つめてきた。
桃子は不思議そうに、そんな佐紀を見返す。
「どしたの?佐紀ちゃん」
「うん・・・」
すると。
佐紀は小さく頷き、そして、答えた。
「ありがとうね。もも――」
「・・・・・・・・・・」
「ももに出会えて、本当に良かった」
まっすぐ桃子を見つめる目。桃子は表情を和らげ、嬉しそうに頷いた。
幽霊になった自分を見据える事が出来る、数少ない人物。その目が真摯に自分の瞳を捕らえる。
それは幽霊と人間。何処か不思議な2人の友情だったのだろう・・・。
佐紀は桃子の顔を見つめ、目を細めると、ハッキリと力強い口調でこう続けたのだった。
「うちとももはさ。ももが死んでから友達になったけど・・・」
「ん?」
「出来ることなら。生きてるうちに、ももとは友達になりたかった」
「・・・・・・・・・」
「生きてるももと、友達になりたかった」
静まり返る空間。桃子は思わず息を呑んだ。
以前、「生きてる人間より、死んだ人間の方が好きだ」と、佐紀は繰り返し言っていた。
だけど、佐紀は今、ハッキリと答えた。
『生きてるももと、友達になりたかった』・・・と。
生きてる人間から取り残されていた少女は、今、再び、生きてる人間と共に生きる事を望んだ。
桃子は佐紀を見つめ、嬉しそうに満面の笑顔で笑った。
澄み切った青空の様な笑顔。
その笑顔を見て、いつか見た時の天使の様な笑顔だと・・・佐紀は思った。
やがて。
桃子はその笑顔をさらに綻ばせると、ゆっくりとその口を開いた。
そして、その口から告げられた言葉は、佐紀が予想だにしなかった、意外な言葉であった。
「うふふ。なに言ってんのぉ?佐紀ちゃん」
「?」
「佐紀ちゃんとは、生きてる頃から友達だよ?ももは・・・」
「・・・・・・え?」
思わず言葉を失う佐紀。
桃子はいたずらな笑顔で佐紀を見ると、遥か遠い記憶を覗くかの様に、その目を細めた。
「佐紀ちゃん。昔と今で全然顔違うからさ、中々気づけなかったけど・・・最近もも、ようやく気づいたんだ」
「・・・・・・・・・・・」
「7、8年ぐらい前だっけ?この桃の木の下で泣いてた子でしょ?左ひざを擦りむいて」
遠い過去の記憶。
だけど、佐紀にとっては、今まで決して忘れる事が出来なかった記憶。
天使のような女の子との出会い。
そして、その天使のような女の子もまた、その時の事をハッキリと覚えていてくれた。
「佐紀ちゃんの左ひざを、そこの柄杓の水ですくって洗い流したんだよね?確か・・・」
「・・・・・覚えてるんだ?もも」
「きっと、ももと佐紀ちゃんはさ。あの時に初めて、友達になったんだと思うよ??」
優しい言葉に、佐紀は泣きそうな目で俯く。
7年前に出会った天使の様な少女は、7年経った今、本当の天使になり、佐紀を救ってくれた。
「ありがとう。ホントウに・・・ありがとう」
ギュッと目を閉じる佐紀。
石川はそんな2人を見つめ、優しく微笑んだ。
佐紀は桃子を『死神ではなく天使だ』と言う。その意味が、石川にもハッキリと解ったような気がした。
そして、その天使に、自分の体を貸してあげるのも運命なのかもしれないな、と思った。
3
夏休みの遊園地は随分と混み合っていた。
2人で勇んで挑んだジェットコースターも50分待ち。
だけど、ジェットコースターの順番を一緒に待っている間すら、2人にとって楽しい思い出だった。
手をしっかりと繋いで遊園地内を歩く梨沙子と、石川の体を借りた桃子。
繋いだ手からは、暖かな体温。久しぶりに感じる人の熱が嬉しくて、ギュッと強く手を握り直した。
「なんか。ジェットコースター。すっごい久しぶり」
桃子が澄み切った青空を見上げながら呟くと、梨沙子はクスッと笑顔を零した。
「もも、ジェットコースター苦手だもんねぇ〜」
「梨沙子だって苦手でしょ?」
「うん、苦手。出来ればこんなの乗りたくない」
「だよねー。ももも乗りたくない」
そう言って2人は、思わず顔を見合わせ微笑んだ。
2人揃ってジェットコースターに乗りたくないと言う。なら、乗らなければいいハズなんだけど、乗らないと言う選択肢は2人にはなかった。
これが最後の思い出作りだから、きっと、泣く事も笑う事も全て感じたかったんだと思う。
50分の待ち時間。特別な会話もなく佇む2人。だけど、繋いだ手だけはずっと握られたまま・・・。
梨沙子は眩しそうに空を見上げると、独り言のようにポツリと呟いた。
「今日はホント。いい天気だね〜」
梨沙子の呟きに、桃子は「うん」と小さく頷く。
真っ青な空に流れる雲。緩やかな風と、降り注ぐ太陽の光。繋いだ手から伝わる人の温かさ。
それは、3ヶ月ぶりに感じる生きた心地。
生きてる時にはなんとも思わなかったひとつひとつが、今は宝物のように感じた・・・。
それから――。
半日の間に、大嫌いな絶叫系に何度か挑んで泣き叫んだり、2人でソフトクリームを食べて笑ったり。
メリーゴーランドや、お化け屋敷にも回った。
お化け屋敷では桃子が随分とお化けを怖がっていて、そんな桃子を見ながら、梨沙子は思わず吹きだした。
「ちょっとぉ。お化けがお化け屋敷怖がってどーすんの?!」
梨沙子が隣りで大笑いすると、
桃子は唇を尖らし「うっさいなぁ」と拗ねた表情を浮かべた。
「だって。怖いものは。怖いじゃん」
「そんな事ないよー。お化けは怖くないよ?」
「そっかなぁ。怖いと思うけど・・・」
「ううん。だって。あたしの知ってるお化けは、優しいもん」
キラキラと輝く梨沙子の笑顔。キラキラと輝く最後の時間。
そんな。楽しくて仕方ない、2人だけの思い出の時。
だが、楽しい時間は、湯水のように流れて行く。
1日中遊園地で遊びはしゃいでいるうちに、次第に日は翳り始め、1日中楽しんですっかりくたびれた2人は、最後に観覧車へと乗った。
すると、お化け屋敷とは逆に、今度は梨沙子が高いとこを怖がる番だった。
「高いとこは苦手」
そう言って梨沙子が不安そうに自分の体を抱くと、その正面で桃子が得意げに笑っていた。
「へへーん。ももは高いトコ、平気だよ〜!」
以前は桃子も高いところが苦手だったが、死んで以降は全く平気になった。
東京タワーのてっぺんにだって、登れるぐらいに。
幽霊の習性とか、そう言うのは勿論、良く解らないけど。
ひょっとしたら幽霊は、より空に・・・天国に近い場所を望むのかもしれないなと、思った。
「うん。幽霊になって以降、空は恐怖じゃなくなった」
桃子が呟くと、梨沙子はふーんと呟き、いたずらっぽく笑った。
「お化けはまだ怖いのにね」
「それはそれ、これはこれ」
そう言って桃子が笑うと、梨沙子も楽しそうにクスクスと声に出して笑った。
4
やがて。
観覧車はいつしか、一番てっぺんの位置に到着した。
2人でじっと窓の外を見る。夕暮れが街をオレンジに染める。綺麗だなぁって心の底から思う。
桃子は心の中で呟いた。
しっかり胸に焼き付けておこう。街の景色のひとつひとつ。
この幻想的な光景。死んでも忘れない・・・って。もう死んでるんだっけ?
そんな事を考えながら、桃子は窓の外をぼんやりと見た。
正面で梨沙子も、ぼんやりと窓の外を見つめている。
ただただ、無言の空間。
そして、2人で黙りこくってから30秒ほどしてからだろうか?梨沙子は、ポツリと呟いたのだった。
「ももは・・・あたしの守護霊なんでしょ?」
「?!」
突然の言葉だった。
その言葉に桃子は目を丸くして、ただじっと、梨沙子の顔を凝視した。
「なんで。そう思うの?」
「なんとなく、そんな気がしてた・・・」
ゆっくりと回る観覧車。ゆっくりと流れる時間。
桃子は観覧車の外を見つめる。
徐々に明かりが灯り始める街並み。
あの日、茉麻と東京タワーのてっぺんからみた、あの景色を思い出す。
(なんとなくだけど。まぁね・・・解った気がするんだ)
(ももは何者なのか。ももはさ・・・きっと・・・きっと・・・)
(みんなを助けるために、みんなを守るために、この世に残された・・・守護霊・・・)
梨沙子はぼんやりと外を見つめる。
キュッと目を細める。
外を見つめて桃子の顔を見ないのは、きっと涙で揺れる眼差しに気づかれたくないからなのであろう・・・。
「ごめんね。あたしがいつまでも頼りないから、ももはあたしが心配で成仏出来なかったんだよね」
「・・・・・・・・・・・」
「ありがとう、もも」
すると。対面から梨沙子は立ち上がると、桃子の隣りに座った。
そして肩に凭れかかる梨沙子。暖かな熱。伝わってくる人の体の温かさ。
「ももがいてくれて良かった。ももがもし居てくれなかったら・・・あたしきっと・・・もっともっと、おかしくなってた」
「梨沙子・・・」
「ずっと、ももの死を受け入れられなかった気がする」
「・・・・・・・・・」
「いつまでも、ももの死にこだわって・・・。みやの事だって、もしかしたら。一生、抱きしめてあげる事が出来なかったかもしれない」
「・・・・・・・・・・・」
「側にいてくれて、ありがとう、もも」
腕を絡める。
梨沙子は桃子の肩に顔を埋める。
涙声。震える声で、震える体で、梨沙子はポツリポツリと呟いた。
「でも・・・もう、大丈夫だよ?もも」
「梨沙子?」
「1人で頑張れる。ももがいなくても泣いたりしない。みやの事だって・・・大切にする」
「・・・・・・・・・」
「だから。ももはもう、自由になっていいんだよ」
梨沙子の腕が桃子の体をきつく抱きしめる。桃子は梨沙子の方に体をむけ、その背中をギュッと抱きとめた。
鼻にかかった声。
泣き虫な梨沙子が、泣くのを必死になって堪えながら・・・。
梨沙子は桃子の胸に顔を埋め、声を、一生懸命に絞り出す。
「ありがとう。大好きだよ、もも」
「・・・・・・」
「だから、もう、いいんだよ?自由になって・・・」
「梨沙子・・・」
「大好きだから。一生忘れないから。だから・・・今度はももが、天国で幸せになって・・・」
「・・・・・・・・」
大切に。ギュッと梨沙子の体を抱きしめる。
泣き虫で弱虫な梨沙子が涙を必死で堪えながら、桃子の為に、桃子の魂を解放する為に、精一杯の強がりを見せる。
ホントはずっと一緒に居たいだろうに・・・。
桃子は梨沙子の髪の毛をそっと撫でた。涙がボロボロと頬を伝う。
温かい涙。温かい体。温かい気持ち。
強く思う。この景色も、この温かさも、全て忘れない。天国に行っても、決して忘れない。
「ありがとう・・・梨沙子。」
その瞬間。
背中に羽が生えた様な錯覚を覚える。
フワリと浮かび上がる体。
いや・・・体は浮かびあがってはいない。
正確には、石川の体を抜け出るように、桃子の姿が・・・桃子の魂が浮かび上がる。
梨沙子は今にも涙が零れ落ちそうな目で、桃子の魂を見上げた。
その背中には、ハッキリと羽が見えた。
「もも・・・」
「ありがとうね。梨沙子」
微笑む。桃子はゆっくりと手を伸ばす。梨沙子もそれに釣られて手を伸ばした。
消えてゆく桃子の体。
だが、2人の手はしっかりと触れたような、そんな気がした・・・。
「もも・・・」
「梨沙子・・・元気でね」
「もも!!!」
「大好きだよ。梨沙子」
笑う桃子。
その姿も微笑みも、すべては空気に融け、次第に消えてゆく。
そして、完全に桃子の姿が消えた瞬間。
梨沙子はボロボロと、堪えていた涙を一気に零した。
「もも・・・ももーー!!!」
泣き叫ぶ梨沙子。
すると、その頭をクシャっと撫でる石川の手。
石川は梨沙子の頭を撫でたまま、そっとその肩を抱いた。梨沙子は石川にしがみ付いたまま、嗚咽を漏らし続ける。
「行っちゃったね・・・桃子ちゃん」
「ひっく・・・うっ・・・えっぐ・・・」
「よく。泣くのガマンしたね?」
「うぐ・・・う・・・ん」
頼りなく頷く梨沙子。
桃子に心配かけさせない為。桃子に安心して天国に行って貰う為の、精一杯の強がり。
ガマンしていた涙は、とめどころ無く溢れかえる。
石川はただただ、その背中を撫で続けてあげた。
そして、肩を濡らす梨沙子の涙の熱を感じながら、ポツリポツリと呟くように答えたのだった。
「私ね。あれから色々考えたんだ。桃子ちゃん。あの子はどうして取り残されたのか――」
「・・・・・・・・・」
「もしかしたらあの子は、取り残されたんじゃなくって。神様が残してくれたのかもしれないって思った」
「・・・・・・・・・」
「本当に『取り残されていた人たち』を、救うために・・・」
みんな。取り残されていた。
交差点に取り残された茉麻も、生きてる人間から取り残されていた佐紀も、死の現実から取り残された梨沙子も。
みんな、世界に取り残されていた――。
そして・・・取り残されていた人たちは、みな彼女に助けられた。
取り残されていた人たちを救い、彼女は消えた。まるで、その役目を果たしたかのように・・・。
彼女は取り残されたのではない。
もしかしたら、神様によって、この世に残されたのかもしれない。
本当に『取り残されていた人たち』を、救うため・・・。
それが人々への、天国の恩恵――GARCE HEAVEN。
やがて・・・。
2人を乗せた観覧車は、地上へと近づく。
空から次第に遠ざかって行く。
梨沙子はボンヤリと窓の外を見た。
街は、まるで天国からの恵みのような、オレンジ色の暖かな夕陽に包まれていた――。
(第11章 さよなら。大好きな世界 FIN)