ほんのちょっと胸が痛い。
そんな風に感じ始めたのはいつからだろう。
ずっーと昔、じゃないし。
すごく最近、でもない。
きっとほんのちょっと前から。
わたしは自分の感情を持て余している。
 
 
 
 
―ほんのちょっと―
 
 
 
 
「おはよー。」
「おはよう、愛理。」
「はよー。」
 
軽く挨拶をしながら部屋を進む。
開いている場所を見つけて、そこに荷物を置いた。
今日も楽屋は何も変わらない。愛理の知っている日常だった。
ゆっくりと楽しそうな楽屋を眺める。
一人と目が合って、ぴくりと体が反応する。
 
「おはよ、相変わらず早いね。」
 
にこりと笑う顔を愛理はよく知っている。
その顔がどんなに可愛いか親友から耳にタコができるほど聞かされている。
さらりと艶やかな髪や、真っ直ぐに透き通った瞳。
良く通る歌声やきびきびとしたダンス。
親友経由でもたらされた情報は確かに当てはまっていた。
 
「あ、うん。みやこそ早いね。」
「珍しく、早めに目が覚めちゃって。」
 
あはとはにかむように雅は笑った。釣られた様に愛理の頬も緩む。
愛理は雅のこういう所が好きだった。
話していて元気になる。楽しい。
ボーノで一緒に活動をし始めてから、初めて思ったことである。
ある意味雅に対する愛理の第一印象であった。
 
「朝、苦手そうだもんね。」
「愛理は逆に早起き得意だよね……羨ましいし。」
 
じっと自分を見る視線に苦笑する。
はぁと憂鬱に吐かれた吐息に胸が高鳴る。
沈んだ顔さえ、きれいだった。
綺麗だと思ってしまった。
 
「ただの習慣だよ、そんなすごいことじゃないから。」
「十分すごいって。」
 
ふるふると首を振り、否定する。
愛理にとって早起きは昔から出来たことであり。
別に凄いことでもなんでもなかった。
しかし雅にしてみればそれは違ったようで。
すごい、羨ましいを繰り返される。
 
―そんなに褒められることじゃないのに。
 
雅から貰う言葉は全てどこかくすぐったい。
褒められるのには慣れている。
慣れているはずなのに、愛理は顔に熱が集まるのを止められなかった。
 
「顔赤いよ?もう、可愛いなぁ。愛理は。」
 
くすくすと雅から笑いが漏れる。
手が伸びて、触れられて、撫でられた。
近くなる距離に鼓動が早くなる。
 
―好き、なんだなぁ。
 
わたしはみやが。
確かめるまでもなく、恋してる。
日に日に増えていく証拠に愛理は気づかざるを得なかった。
気づきたくなんてなかったと愛理は思う。
雅が好き、なんて言い出せるわけがない。
愛理は梨沙子の想いを誰よりも知っていたし、応援していたから。
言えない想いならいっそ無い方が楽だ。
 
「みや、何か用あったんじゃないの?」
「あー……うん、まぁね。」
 
撫でられたまま雅を見る。
ちょっと困った顔をしていた。
濁された話題に愛理は大体の予測がついた。
仕事のことならいざ知らず、楽屋で雅が言いにくそうになる話題など限られている。
 
「なに?」
「梨沙子、知らない?」
「梨沙子?」
 
そしてそういう時の予測ほどよく当たるもので。
愛理は苦い感情を隠しながら首を傾げる。
梨沙子のことだろうなとは思っていたけれど、そう聞かれるとは思っていなかった。
 
「まだ、来てないの?」
 
入ってきた時にちらりと見た程度だった楽屋を見回す。
愛理の頭を撫でていた手はいつの間にか下ろされていた。
騒がしい部屋の中、確かに梨沙子の姿は見つけられない。
それ以前にきっと梨沙子がいたなら既に雅との会話に入ってきている。
それ位には梨沙子のことを理解している自負が愛理にはあった。
 
「うん、梨沙子にしては遅いからさ。」
 
雅の言葉に愛理は手元の時計を見る。
針は集合時間の20分前を指していた。
確かに梨沙子にしては遅い。
 
「……そうだね。」
 
昨日メールしていた時はいつも通りだった。
体調を崩しているとかではなさそうだ。
理由が見つからなくて愛理は再び首を傾げる。
 
「寝坊かな?」
「梨沙子が?まさか。」
 
漏れた言葉を即座に否定する。
愛理にしては珍しいほど強い口調だった。
梨沙子は寝坊しない。
そう断言できるだけの根拠が愛理にはある。
 
―みやと話せる時間を梨沙子が無駄にするわけないよ。
 
じゃあ、なんだろと考えて心配になる。
寝坊じゃなくて具合が悪いわけでもない。
行き着く先は一つしかない。
もしかして雅もそう思ったから聞いたのだろうかと深読み気味に思う。
二人して深刻な顔を見合わせる。
妙に静かな刻が流れた。
 
「……メールした?」
「うん、朝したら普通だった。」
「そっか。」
 
朝したという事は完全に寝坊は消える。
うーんと腕を組んで呻る。
余り見ない雅の表情に少し嬉しくなって、すぐに不謹慎だとその感情を打ち消した。
どうしたんだろとあれこれ話し合っている内にもどんどん時間は過ぎていく。
いつの間にか10分が過ぎていた。
 
「ほんと、遅いね。」
「ね、集合時間になっちゃう。」
 
すでに大体のメンバーが集まっている。
雅がそわそわしだす。
愛理も落ち着いていられなくなってきた。
梨沙子の抜けている所も身に沁みて良く分かっている二人だからこそだ。
 
「うち、入り口まで行ってこようかな?」
「ダメだよ、みやまで遅れたら意味無いし。もうちょっと待ってみよ。」
 
とうとう雅が楽屋を出ようとして、愛理はそれを引き止める。
心配なのは愛理も同じだ。迎えにいけるなら行きたい。
だけど愛理の中のプロ意識がそれを良しとしなかった。
同時にここまで心配される梨沙子が少し羨ましくなる。
梨沙子の親友である愛理と雅を好きな愛理は常に戦っている。
 
―ダメだなぁ、わたし。
 
どうしても割り切れない。
梨沙子が好きだ。そして雅が好きだ。
どちらの気持ちにも嘘はない。
梨沙子が雅を好きな気持ちは誰よりも分かっている。
聞いてきたし、愛理はその気持ちにきっと誰より共感できる。
だからこそ愛理は梨沙子を裏切れない。
口に出すなんてことは間違ってもしちゃいけない。
 
「あー、もう、何してるんだろ。」
 
こんなに心配させて。と続く言葉が聞こえそうだった。
苛立たし気に雅が組んでいる腕をノックする。
その本気で梨沙子を心配している姿にくすりと笑みが漏れた。
 
「梨沙子のこと、大事なんだねぇ。」
 
嬉しくなって、ちょっと切なくなる。
自分の大切な人を大事にしてくれるのは嬉しい。
だけど自分には向けられないその種の視線が羨ましい。
 
「別に……梨沙子は愛理と違ってしっかりしてないから。」
 
それだけを雅は言った。
しっかりしている、よく言われるそれは褒め言葉なはずなのに。
今の愛理にとってはそれ以外にしかならない。
 
―みやは鈍いからなぁ。
 
そして驚くほど優しい。
雅は自覚していない、気づいていない。
そこに愛理の付け入る隙はあるし、またそうできない理由でもある。
自覚していない優しい雅はきっと愛理のことを受け入れてくる。
だがそれはそのまま梨沙子を裏切ることになり、愛理はそうすることが出来ない。
雅の明るい笑顔が大好きだ。ずっと見ていたいと思うくらいに。
それと同時に梨沙子の穏やかな優しい笑顔も愛理は手放せない。
結局、どうしようもない感情なのだと愛理は想う。
 
―バタンッ!
 
またもや黙り込む二人の耳に大きな音が響く。
梨沙子の事で楽屋の入り口近くに来ていた。
同じリズムで二人は扉の方に顔を向けた。
 
「ごめん、遅くなっちゃった!」
 
激しい音と共に楽屋のドアが閉められる。
飛び込むように入ってきたのは間違いなく梨沙子だった。
はぁと肩で大きく息をする様子は急いで来たに違いない。
息を整えようとその場を動かない梨沙子に自然と愛理の足は動いていた。
 
「おはよう、梨沙子。何かあったの?」
「ふぅ……あ、愛理。おはよう、それが車渋滞しちゃって。」
 
顔を上げた梨沙子にふにゃっと微笑まれて、愛理の顔も思わず緩んだ。
この笑顔がなくなるのを愛理は耐えられない。
「大変だったね。」と話しながら少し距離を縮める。
その行動に梨沙子が首を傾げるも気にしない。
 
「みやが心配してたよ。」
「え?みやが。」
 
近くにいる雅に聞こえないよう小声で話す。
愛理の言葉に梨沙子は一瞬驚いた顔をして、雅の方を見る。
梨沙子が入ってきたときから雅は少しも姿勢を変えていない。
腕を組んで不機嫌そうな顔をしていた。
梨沙子と目が合って雅はぷいと顔を逸らす。
その瞬間に梨沙子の体は雅に向かって飛び出していた。
 
「みやっ、おはよ!」
「はよ、来るの遅いし。」
「心配してくれた?」
「してない。」
 
雅の口調はぶっきら棒だがそれは心配していたからに他ならないと愛理は知っている。
当然梨沙子にもそれは分かったようで、今は弾ける様な笑顔だ。
これでいいと愛理は二人を見て微笑む。きっとこれが一番いい形なのだ。
愛理はそう思い、浮上してきた感情を再び底に押し込めた。
ツキンと痛んだ胸の痛み。
それに愛理は一生知らない振りを通すのだろう。
 
 
神様はいじわるだ。
なんでみやを好きになっちゃたんだろう。
なんで梨沙子と同じ人を好きになっちゃったんだろう。
ほんのちょっと、この世は侭ならないことが多すぎる。
 
 
 
 
―ほんのちょっと―終